No.3<生と死>-死すべからずの理由- | 眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて)

No.3<生と死>-死すべからずの理由-

個人レベルでのリセット。それは死である。だが、それをジ・エンドと解釈なさっている方も大勢おられることだろう。
私自身は、死とはジ・エンドでなく、リセットだと考えている。
つまり、その根底には転生輪廻の思想があるが、私はそれを信じている。
では、輪廻とはどういうものなのだろうか。

生まれ変わりであるというならば、生まれ変わる主体とは、一体何なのだろう。
私は、こうした輪廻を行う主体こそ、人の本質なのではないかと考えている。我々の意識の中で、どれほど肉体を移り変えても変わらぬ存在。その最も尊い部分。

では、個々の意識は来世に何を持ち越すことができるのだろうか。
実はこの問題,転生輪廻の本質にせまる質問なので、軽々しく答えること自体、憚られる。けれども、あえてその禁忌を犯してみるとしよう。

来世に持ち越せるもの、そこに現世的な財産など問題外だ。そのかわりになるものすら存在すまい。
どれほど現世で富を蓄えようと、来世にそれを持ち越すことなどできないという立場だ。

では、教訓や悟りなのだろうか。
特殊な例を除いて、それらも誕生とともに全てを忘却しているのが現実なのではなかろうか。
ならば、一体何が残るのか。あるいはそれ以前に、何が来世を決定づけるのか。

私は、現世で表現した思いや行いによって育まれた「果実」が、来世にもたらされる運命であると考えている。
その果実が美味か否かは味わうその方次第。けれども味の責任は常に当人が負っている。
そして、個々の意識が来世に持ち越すもの。生きるということは、思いを正し、行いを清くしようと考えるだけでなく、それを表現し続ける習慣=カルマをその本質に刻み付けることだと信じている。
魂である人の本質に刻み込まれた習慣だけが、良くも悪くも、われわれが来世に持ち越せる唯一絶対の財産なのではあるまいか。
それ故、あるとき教訓や悟りを得ればそれでおしまいといった類のものではあるまい。
個々の存在が、限られた人生で、粛々とこれを自己表現してこそ、希望はかなうものなのだと私は信じている。

人生に限らず、どこでリセットしようが、結局そこにはやり直しが待っているだけであり、最終的に同じ問題と直面せざるを得ない。
同じことになってしまうなら、逃げずに立ち向かって問題を解決してしまった方が良いはずだ。その意味で、転生輪廻の思想は決して自殺を容認するものではないということができるだろう。
一方、故人の足跡に学び、これを次世代に伝えていくこともまた一つ、輪廻の別な側面であるといえよう。