No.5<愛とは> | 眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて)

No.5<愛とは>

[悪に対抗し得る唯一の武器。いつの時代も、それは愛に他なるまい。]

私たちはそれぞれ個性なるものを持ち、一見して多様な姿でこの世に存在しているようにみえる。
けれども、本当は、もともとたった一つの存在である神が、己の素性を忘れて現世に現れているだけのものであるという。
輪廻の多様な側面を示しながら、相手に自分自身の姿を見出す行為、すなわち神の姿を見出そうとして生きるべき存在らしい。

ならば、個々の存在が共存するためには、互いの神性を認め合って生きるしかない。
つまりは、「私」が、「私」であろうとするエゴをすら、超えてしまわなければならない。
我々が、アメリカやテロ組織の悪行に憂え、怒りを露にするとしても、それは彼らに対してであってはならない。彼らは単なる行為者であり、表現者に過ぎず、真に憎むべきは己自身に内在するエゴの心にあるということ。
個々の存在が有するエゴが、総体として表現されたものが、世界のありように過ぎないということ。
それ故、平和を求めるならば、まず、己が心のうちに安寧を築く必要があるということ。
常に己が意識に沸き起こるエゴの冷徹な監視者たれということ。
この世で起こるあらゆる事象に対して、我々一人ひとりが、皆等しく責任を負っているということ。
世界を変容させるのは誰か特別な救世主の力によるものなどではなく、われわれ個々の存在が有する愛の力、エゴを無力化する神の力なのだということ。

かつて、愛は大切心と呼ばれた。相手を大切に思う心。
けれども、相手の存在によって自分が幸せになろうと欲するならば、それはエゴとなる。
愛とは、無償であってこそ愛なのだ。男女の恋愛は、恋心が消えた際に残った思いが愛なのだ。
故に、恋心多くして愛の少ない結婚は、ほどなく破綻してしまうことだろう。
恋はまぼろしであり、熱病であり、遠からず冷めてしまうものだからだ。
愛を取り違えると真実は見えなくなってくる。

また、怒りもエゴの一側面である。怒りの源には、最初に期待がある。そして、己の期待した形に何かがそぐわなければ、そこに怒りが生じる。
けれども、己の期待を相手に押し付けることもエゴなのだ。故に、怒りもエゴであるということができる。

現世においては、おおよそ、我々が発した思いや行いは、良きにつけ、悪しきにつけ、我々自身にかえってくるという実感が私にはある。
思いと行いを正し、日々の生活で愛を実践してこそ、生命の本質たるエゴを抑制せしめることができるのではなかろうか。
憎悪の念よりは愛をこそ受け取っていたいものだと願わずにはいられない。