N0.4<悪とは> | 眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて)

N0.4<悪とは>

[エゴのネガティブな側面を、悪の正体に照準を合わせて、考察してみる。]

辞典をひも解くと、「善の反対」、「正しくない」、「よくない」、「醜い」、「不快な」、「不吉な」、「粗末な」、「苦しい」、「たちの良くない」、「好ましくない」と並ぶ。日常的な悪といえば「殺人」、「自殺」、「戦争」であろうか。

「この世には相対的な立場の違いから悪のごとき虚像を相手にみるだけで、絶対悪は存在しない」といわれることがある。
しかしながら、生身の感覚では「これぞ悪」と感じずにはいられぬ凶悪事件を目の当たりすることしばしばである。
よくよくみれば、先の三つの悪、抑制を失って解き放たれたエゴの形であるとわかる。生命の本質であるエゴ。
では、生きること自体、悪なのかということにもなりかねない。

癌は悪性新生物とよばれる。実は健常者の体にも、生まれては消される、を繰り返している。一説には、このおかげで免疫機能が保たれているのだそうだ。それは、宿主の体を死に至らしめるまで己の自己主張をやめないエゴの塊で、ある意味、もっとも生命の本質に忠実な存在だ。癌にしてみれば「生きる」を無制限に自己主張しているだけ。けれども宿主にとっては「悪」以外の何者でもない。
それでも、人体にとっては必要不可欠なカタキ役なのかもしれない。

では、悪のもつ「好ましくない」の意。何にとって好ましくないのだろう。
結論からいえば、人の生きるべき道、己のエゴを制しようとする努力にとって好ましくないといえるのではなかろうか。
殺人、自殺、戦争、いずれも、この人の努力に対する敗北を意味している。
エゴと向き合う努力。これぞ神の行為。人の本質は神。
となれば、人間とは神と悪が同居する自己矛盾を抱え続け、戦い続ける宿命を背負った存在であるといえるのかもしれない。ならば、生きるというコトは悪ではなく、神と悪との戦いを示す自己表現とみるべきではないだろうか。
この世の存在意義もまた然り。我々神の意志を自己表現するための舞台にすぎない。とすれば、「好ましくない」存在ではあっても、なくなると困る存在でもあるのが悪。なぜなら無いとドラマが成り立たなくなってしまうからだ。

悪。それは抑制を失ったエゴの形。決して無くなることのない存在。
無くすことはできないと解っていながら、無くそうと挑まなければならない存在。
ドラマに欠かせぬカタキ役。