No.2<生命の本質> | 眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて)

No.2<生命の本質>

我々人間は、肉体を持った瞬間から自己のDNAを残すことを最優先させるという特質を帯びる。生命の本質はエゴなのだ。
ところが、エゴを優先させると、他の個体と共存不能に陥り、自滅するというジレンマを抱えている。
よって、肉体に宿った精神は、自我の抑制を自らに課す宿命にある。
人間は、他の動植物に比較し、この高次機能が発達しているが故に、抱えた矛盾も大きい存在だ。

エゴの抑制は、対象が自分自身であるうちは、まだ制御可能(それでも困難)なのだが、家族、国家、宗教へと所属する団体が大きくなればなる程、もはや制御は不能になる。
それは、個々の存在が、所属する集団のエゴを優先させてしまうからだ。
エゴの対立、その最大規模が戦争だ。
争いを収めるには、個々の集団が持つエゴを極限まで低減させるしかない。
帰属する集団のエゴを治めるには、より広い視野が必要になる。
例えば、国の利益を優先させるか、人類の利益を優先させるのかといった選択だ。
結局、より広い視野で選択するためには、最小規模である個人のエゴを極限まで縮小せざるを得ない。

優れた宗教の多くは、個人の有するエゴからの完全な脱却を奨めている。
それが叶うとき、解脱によって輪廻転生が終息し、魂が救われるというのである。
実社会を生きる普通の人間にとって、それは理想主義者の幻想のように感じられる。
けれども、個々の存在が抱えるエゴの総量に応じて、世界はその姿を変えるのだと私は信じている。

実生活の中で、誰もが選択を迫られる場面に遭遇する。個人の利益を優先すべきか、帰属する集団の利益を優先すべきか、あるいはより大なる集団の利益を優先すべきなのかといった選択だ。程度の差こそあれ、我々は常にこうした葛藤と遭遇する運命にある。
実に、この世はこうした様々なエゴのせめぎあいによってバランスを保っている。
生命の本質はエゴなるが故、人が生きる上で、この種の葛藤と無縁でいることは許されないのではなかろうか。
そして、人がエゴに対して十分な抑制と節度を設ける試みに失敗するとき、そこにリセットたる敗北が待ち構えていよう。