No.1<リセット> | 眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて)

No.1<リセット>

最近、映画ではリセットを思わせる結末を目にすることが多い。
大災害だったり、戦争だったり、いわゆる破滅を連想させる類の物語だ。
こうした展開に感じるもの。それは何でもかんでも状況打開が難しくなってきたら「リセットしてやりなおし」的な、テレビゲーム登場以来、増大傾向にあるデジタル思考の危うさである。
現実はそんなものではないと思ってしまう。
問題を置き去りにしたままリセットに頼り、希望を求めて逃げ込んだところで、結局、同じ問題にぶつかるだけなのではなかろうか。
目の前にある問題と向き合うことの大切さを自覚する必要があろう。

一方、このリセットには、究極の予定調和の結果、招いてしまう物という側面があるように思われる。
例えば、現在の穢れた世界に対して特効薬を求めるなら、それは、ある種のリセットによらざるを得ないことだろう。
極論すれば、リセット型の物語に感銘を受けてしまう人が増えると、特効薬を求める大勢の意識に招き寄せられて、この世界に対する極端な反作用が生じてしまうのではないかと危惧されるのだ。

実際、個々の存在が、それぞれにリセットを選択する場面が増えている。
身近な例では「転職」であったり「離婚」であったり、ひどくすると「殺人」であったり、「自殺」であったり。過去における人類最悪のリセットは、核兵器の使用であったといえるだろう。
現在のイラク戦争にしても、「アメリカ様の軍事力でフセイン独裁をリセットして差し上げましょう」というのが表向きのスローガンだった。
けれども結果はご覧の通り。

無論、リセット自体、やり直しではあっても、単なる繰り返しのみを意味するものでは決してなく、局面によって、ポジティブな場合もあれば、ネガティブな場合もあろう。
私は、何事も、らせん状に進化するその過程で、過去に類似した位相を経るものと解釈し、リセットをその節目に位置づけている。

しかしながら、その過程では、当然、乗り越えるべき障壁や課題があり、それをかわしていたのでは進化は望めまい。
つまり、逃避としてのリセットであれば、自殺は勿論、転職であれ離婚であれ、そこに意義や価値を見出すことはできないという立場だ。
それは文明や文化にしても同様で、現況の予定調和としてのみ、リセットを受け入れていたのでは、らせんを描く発展を示すことなく、現状復帰のループに陥ってしまうことにもなろう。

かつての世紀末破滅予言の数々。なぜ、あれほど話題にされたかといえば、予言とは別に、核や環境問題、エネルギー問題など、我々の文化、文明にリセットを与え得る幾多の危険が実在していたからではないだろうか。確かに、めでたく21世紀を迎えることはできたが、その危機的状況には、何ら変わりがない。

私自身は、「個々の存在が有する思いと行いの集積によって世界が変容するのだ」と信じている立場なので、現在の趨勢にはある種の切迫感を覚える。しかし、現実的にリセットは確実に存在し、まさに、起こるべくして起こってしまう。

勿論、リセットにもそれなりの効果はあるのだが、いかんせん要求される犠牲の規模が大きい。では、我々はいかにすればこのリセットを回避できるのか。それはまた、いかにして生きるべきかを問いかける行為に他なるまい。
少しばかり、そこに時間を費やしてみることにしよう。

参考図書 リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」