<エゴの統御とあるべき姿> | 眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて)

<エゴの統御とあるべき姿>

利己心というエゴは、生命の本質的な衝動であり、これを完全に排除してしまおうとするなら、死ぬしかない。食欲ですら、別の命の犠牲を強いることなしにそれを満たすことはできない。生きるということそれ自体がエゴの主張に他ならず、エゴの否定は生命性の否定につながるのだ。従って、エゴは排除するものでなく、これを統べるものであると私は思う。

乳飲み子は自身の欲求を通すだけが仕事である。それは生きるために必要なエゴの主張であり、そうした原始的な欲求を抑え付ける必要は全くない。したがって、親はひたすら子の欲求に応えるだけであり、子はエゴの解放によってもたらされる快の感覚を体験する。
しかしながら、乳児から幼児になるに従い、徐々に親は子のわがままを戒めて欲求を抑制する術を教え、あるべき姿に躾ようとする。ここで初めて、子供たちは自己の欲求を抑制する術を学ぶのだ。
その後、子供たちは自我の目覚めとともに、反抗期を迎えて再び欲望を追求しはじめ、親のいうことをきかなくなってしまう。そうして自分で物事を選択し、その結果を受け取ることで、欲求の抑圧と解放のバランスを習得するのである。これが、エゴの統御のもっともプリミティブな形である。

躾られていない子供はエゴを抑制することができず、エゴを統べることができない。一方、乳児期に不自然な形でエゴの抑制を強要されたり、思春期に自我を主張してエゴを解放する術を知らない子供もまた、エゴを抑えつけるばかりでエゴを統べることができない。どちらも大人になってから己のエゴに振り回されて困ってしまうことだろう。
人は、エゴの解放と抑制を交互に学びつつ、エゴの統御を会得するのである。

核は、人のもつ獣性の権化、究極のエゴの物質化である。ゆえに、人として生きるならば、これを統べて生きねばならぬことだろう。核との共存を謳う人々がいるのもこのゆえであるのは間違いない。
だが、我々の目指すあるべき姿はやはり神にあるのではないだろうか。そして核との決別、核に頼らぬ選択こそが我々を人から神へと導くことになるのだと私は思う。
神々の世代をいざなうため、その捨石になる勇気が我々に求められているのだと。
人類全体の進化、神化はすぐそこにあるのだ。
古より預言された神の御国、神々の時代の到来は近い。