<神はハートにあり> | 眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて)

<神はハートにあり>

神という呼び名を目にすると、これを「理解」するために多くの人はあれこれと既存の知識をたどろうとする。つまり、己の外側に神を見出そうとするわけだ。けれども、ハートのスイッチを切った学者や思想家、あるいはその真似をする者たちがいかに頭をひねってみたところで神にたどり着けるはずもなく、往々にして“神は人間が方便としてつくり出した概念に過ぎないもの”という結論に達してしまう。こうなると、ほとんどの探究者は伝えられる概念の相違点ばかりが気になって、神の普遍性に思いが及ばなくなってしまうようだ。

一方、今ある秩序、全宇宙の存在原因として、あってあるもの、我々一人ひとりの意識の奥深くに内在し、理性の営みの外にある普遍の無限存在として神をとらえれば、神とは、ハートで感じ、味わうものであるということになる。
もし、そうであるならば、宗教を掘り下げる行為もそうだが、文献に神をたどるのは不毛であるということになるだろう。探す場所を誤っていたのでは神にたどり着けるわけがないからだ。

実のところ、ヨーガや密教に伝わる特殊なテクニックを用いて瞑想し、意識の深い領域に達すると、一時的にせよ人は神の意識との一体化を経験できるようだ。そのような経験を持つ人間にとって、神は人間のつくりだした概念であるだとか方便であるだとかの理屈はまるで意味をなさなくなってしまう。神は我々一人ひとりの内側にあるのであって、それを己の外側に見出そうとするのは、己にかけた眼鏡を探す愚挙に等しいというわけだ。

往々にして、人間は困るまでは神を必要としない生き物である。ゆえに、神はその子らを己に近づけさせるために困らせるのではないだろうか。あるいは、人が神に近づくために困った状況を自ら演出するともいえるだろう。人が己の存在意義について深く省察するのは困ったときをおいて他にはないからだ。それは、人が神にいたるためのきっかけに過ぎまい。我々の人生は、我々自身の手によって遠い過去にグランドデザインを終えているという意味である。

人間はいつも矛盾を抱えて苦しむ生き物ではないだろうか。だから、“獣と神との間にある何者か”なのである。あるべき姿と今ある現実との間にある矛盾を忘れぬ限り、その矛盾に苦悩する限り、人は獣に落ちることから免れ得ることだろう。