<無限存在と輪廻転生> | 眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて)

<無限存在と輪廻転生>

10カラットのダイヤも100カラットのダイヤも、炭素の塊であることに変わりがないのと同じように、苦しみ、悲しみにどれほど高値を付けてみたところで、それらが有限なものを失うところから派生した幻であることに変わりはない。なぜ幻であるかといえば、それは我々の本質が輪廻転生を繰り返す無限存在であるからだ。

我々は苦しみ、悲しみ、憎しみ、喜び、その他諸々、感情の全てを味わいつくすために幾度と無く生まれ出でていることだろう。それが輪廻転生の思想である。ならば、既にその味を十分に知りえた人生は選択されることがないに違いあるまい。多くの人が本能的に殺人を忌避するのはその故である。殺しの味、そしてその結果としての殺される味を既に知り尽くしているからだ。また、こうした思想は何も仏教に限った話ではなく、ニケーア公会議以前に伝わるイエスの教えには、因果応報、輪廻転生を肯定する思想が含まれていた可能性を示唆する報告もあり、広く普遍性を有すると私は思う。

我われが本質的に無限であるというならば、人類にどれほど冷酷で残虐な歴史があったとしても、それは神の栄光を汚すものではあり得ない。なぜならそれは押しなべて人の獣性がもたらした帰結に過ぎないからだ。ゆえに、それをもって神の慈愛を否定することなどできはしない。神の御心が我儘なのではなく、それは人の気まぐれ、身勝手の表出に過ぎないからだ。この世界のあらゆるドラマには、神の恩寵が奇蹟となって煌く瞬間を除き、ただ原因と結果があるのみだ。

そもそも、人とは、“獣性と神性とを併せ持ち、神にいたる途上にある何者か”なのだから、慈悲の心を著しく欠いた獣のごとき輩が存在しても何ら不思議なことではないのである。我々自身が獣の言説に惑わされることなく、ただ神への道を粛々と歩めばそれで良いのではないだろうか。
殺戮の歴史は、人の獣性がつむぎだした結果に過ぎない。しかしながら、何もしてくれぬ神に呪詛のコトバをはき捨てる人々は後を絶たない。けれども、そうした発想は単純に神と己を分かつ分離感に由来しているに過ぎず、己がハートの外側に神を見出そうとすればこそ、神の不在を確認せざるを得なくなるというだけの話なのだ。

したがって、人類の歴史において、神には何の責任もありはしないことだろう。同じように、霊的存在としての我々にもまた、何の責任もありはしない。有限の世界における諸々のドラマは神が己の何たるかを知るための遊戯に過ぎないからだ。霊的無限存在として、我々は完璧に平等であり、自由である。我々は己の何たるかを知る途上にある神そのものであるという意味だ。さすれば霊的存在として、我々はあるがままで良いといえるだろう。慈愛の神など信じぬ、輪廻も因果も信じぬというのであれば、それはそれで良いのである。

何を信じて生きるかは、己がどのように人生を納得させるのかという単純な問題に還元されることだろう。その獣性をむき出しにせざるを得なかったキリスト教徒たちもそうだが、己が信じるところに従って生きればそれで良いのだ。そして、そのような人々がつむぐ歴史を見て、後世の人々は何が間違っていたのかを悟るだけの話ではないだろうか。人は誰しも己の信じたものにふさわしい幻をこの有限の世界で味わう定めにあることだろう。

制限がないとき、人は怠惰とならざるを得ない生き物である。ゆえに、我々は限りある時間の中で生きるのではないだろうか。過去世の記憶がないのはそのゆえである。あるのはただ漠然とした生きる傾向、いわば魂の習慣で、それをカルマと呼ぶ人もいる。実人生においてはこのカルマと向き合い、粛々とその一つひとつを清算、克服して行く営みこそが人生であると私は納得している。人生とは味わいに他ならぬと。