<真理の行方> | 眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて)

<真理の行方>

旧約、新約ともに、開祖の教えを正確に伝えることには失敗しているといえるだろう。コーランにしても同じことである。その時々の世情により、教えは伝える者によって歪められてきたからだ。
しかし、ハートで神をとらえる者にとって、新約の神にせよ、旧約の神にせよ、あるいはイスラムの神にせよ、そこに普遍的な慈愛の神を見出すのは難しいことではない。聖賢たちの教えが混乱しているように見えるのは、彼らが混乱しているからではなく、その教えを受け止める側の混乱によるのではないだろうか。
聖者の教えは、もとを正せばいずれも口伝であり、伝える者たちの意識をくぐる段階で変容を余儀なくされてしまうのである。ゆえに、頭でこれを理解しようとすれば、衆生の混迷を見出すことになるだけだ。

因果応報も同じ事で、理性の営み、知力の働きで因果律を解き明かすことは単純にいって不可能なのである。それは知性に限界があるからだ。
しかしながら、人には知性のみならず感性があり、この働きに負う高次の認識を悟性と呼ぶなら、悟性によってのみ、因果律をたどることが可能となる。さすればそれを観察者の錯覚であるだとか思い込みであるだとかいう結論には達し得ない。ただ、理性に限界があるのと同じように、悟性にもまた限界がある。当然、過ちもあり得るだろう。ゆえに、真理を追究する者には何より謙虚であることが必要とされるのではないだろうか。

神が無限の愛、慈愛そのものであるというなら、何ゆえ衆生には悪徳と暴力がはびこり、善男善女がもだえ苦しまねばならないのかと人は問う。何もせぬ神は無慈悲ではないかと。しかし、己が苦しみを奥深くたどれば、そこにあるものこそ、錯覚に過ぎないのではないだろうか。諸々の苦しみ、悲しみは、我々が有限の存在であることに由来する。有限なものを失うことで苦しみや悲しみが生まれるからだ。しかし、他ならぬ我々自身が神の化身であり、無限存在たる己の素性を忘れてこの有限の世界に戯れる神であると悟るならば、その苦しみ、悲しみを退けることができるだろう。

無限にして唯一の神が“存在する”ためには、それを認識する客体として神を想う有限存在が不可欠なのだ。苦しみ、悲しみはこの有限なものを失うという感覚の延長にある幻に過ぎない。不安もまた同じである。ゆえに、目に見える肉体を失う死によって無限存在に回帰することが救いとなるのだ。不生不滅、死なば皆仏とはそういうことではないだろうか。
かつてイエスが自ら十字架を背負い、目に見える命を犠牲にしてまで人々に示してみせたものの本質がそこにある。彼の教えの骨子は、人の本質がその霊性にあり、無限の存在であるということに他なるまい。
神がどこにあるかと問われるなら、私は各々のハートを指すのみだ。そこにある慈悲の心、慈愛の心が神であると。