<エビデンスのない話(5) 解決法> | 眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて)

<エビデンスのない話(5) 解決法>

腸腰筋の弛緩不全が引き起こす疾患には変形性股関節症も挙げられる。力学的に考えれば、同筋の弛緩不全は股関節に対しても軸圧として作用するので、これは当然の帰結である。その前病変となり得る臼蓋形成不全症では、形態的には長期間同じ状態が続いているにもかかわらず、実際に股関節痛を発症するのは30~40代からで、発症後は将来の股関節変形を見越して骨盤回転骨切り術の対象となる場合が多い。つまり、加齢に伴う股関節周囲筋の筋力低下が原因で痛みを発症し、病状が進行すると一般的に考えられているわけだ。だから、同症に対しては股関節周囲筋の筋力強化が推奨されている。

しかしながら、これまでの理屈に鑑みれば、痛みの発症に関与するのは股関節周囲筋の筋力低下というより、その弛緩不全にあることが示唆されよう。筋力低下は弛緩不全の結果に過ぎないというわけだ。ゆえに、股関節周囲筋の筋力維持と、その弛緩とを同時に達成することで、従来の保存的治療より病状の進行をはるかに抑制できるのではないだろうか。
実際、外来では、レ線上、明らかな臼蓋形成不全が認められるにもかかわらず、70代にいたるまで痛みの訴えがないばかりか、ほとんど関節裂隙の狭小化や変形を伴わない症例にでくわすことがある。そのような場合、詳しく問診してみると、体重の自己管理は勿論ながら、日常習慣から、腸腰筋をはじめ、股関節周囲筋の筋力維持と弛緩とに成功していると考えられた。即ち健康維持目的にプール通いを日課としていたのである。

なぜ、プール通いが筋肉の弛緩を促すのに役だったか。ここに、治療戦略のヒントが隠されている。もともと、関節の滑らかな動きは、複数の筋肉の収縮と弛緩とが同時にコントロールされたそれらの協調運動で成立しているが、それには神経を介した電気的な信号の伝達が欠かせない。同一姿勢の継続や運動不足の習慣化によって神経伝達機能が衰退すれば、それによって弛緩不全が生じるはずである。ならば、筋肉の収縮と弛緩とを繰り返す簡便なエクササイズだけで、筋肉それ自体にはさほど負荷を与えずとも、神経伝達機能を介した筋弛緩の達成が期待できるだろう。特定筋肉が主動筋と拮抗筋の役割を交互に果たすダイナミック・ストレッチの類が、これに相当するといえそうだ。拮抗筋を演じる際、収縮に対する抑制が働き、弛緩していくわけである。

ここでいうダイナミック・ストレッチとは、関節を免荷状態にしておき、その可動域で屈曲伸展、あるいは内外旋などの自動運動を反復するストレッチのことである。これはアシスティブに行っても良いが、神経伝達機能の回復と、その利用とを目的とする都合上、可能な限り自動運動で行うことが望ましい。平たく言えば、身体に力の抜き方を思い出させるわけである。通常、ダイナミック・ストレッチは関節可動域の拡大を目的として、その最大可動域を用いながらアシスティブに行われるが、本稿で推奨するそれは、筋弛緩を得ることを目的としているために、痛みを感じない程度の限定的な可動域で自動運動を繰り返すだけの極めて非侵襲的なもので、メディカル・ダイナミック・ストレッチ(以下、メディカル略)とでも呼ぶべき方法である。例えば、椅子に腰掛けた子供が、行儀悪く足をぶらぶらさせているあの状態が大腿四頭筋のそれに相当する。おそらく、筋肉の弛緩不全は神経伝達機能の衰退期のみならず、その発達期においても生じ易いに違いなく、子供たちの行う、あの落ち着きのない動きには意味があったと考えられるのだ。

実際、筋肉の弛緩不全を抱えて来院した行儀の良い子供たちの多くでダイナミック・ストレッチは奏功する。水中では免荷状態に近い条件が得られるので、そこで“ゆったりと”行うあらゆるエクササイズが、アイソキネティック・エクササイズに通じるばかりでなく、ダイナミック・ストレッチとしての作用も兼ね備えると考えられるわけだ。
ただし、“ゆったりと”とはいえ、このダイナミック・ストレッチが奏功するか否かは、収縮と弛緩とを繰り返すテンポ、そのリズムにかかっており、各々に時間をかけ過ぎても、また速過ぎても、力(りき)んでしまって良好な結果が得られないばかりか、かえって症状を悪化させてしまう場合があることには注意が必要だ。特に中高年では、熱心に取り組む真摯さが仇となってしまう場合も少なくない。しかも、高齢者においては、教えたはずのエクササイズが、ほどなくして別物にすり替わってしまうことも多く、外来では適切なエクササイズを頻回に確認することが重要だ。また、筋肉の協調運動が滑らかでない間はエクササイズの回数を制限しておく必要もあるだろう。

一方、一点を固定してゆるやかに筋肉を伸張させ、そこで静的にその状態を保つ方法がスタティック・ストレッチである。腸腰筋をストレッチする場合、患者を伏臥位にしてFNSTを行う要領で他動的に股関節最大伸展位をとると良いだろう。固有背筋をリラックスさせた状態で行うことがポイントだ。また、大腿四頭筋のストレッチであれば、同じく伏臥位で他動的に膝関節最大屈曲位で静止するのを繰り返すと良い。弛緩不全が解消されるに従い、徐々に踵臀距離は短くなって行くのがわかるだろう。
ストレッチの間合いは原則として患者本人の深呼吸のリズムで行うのが望ましいが、高血圧症の患者に行う場合は、間合いを短めにして、伸展強制も浅めにしておいた方が無難である。尚、スタティック・ストレッチはスポーツ等で生じた疲労性の弛緩不全には良い適応があると考えられるが、低緊張性の弛緩不全や脆弱な高齢者の筋肉には適さない。高齢者の筋肉が抱える機能不全は廃用性の変化が主体であるので、筋肉の過牽引は筋筋膜それ自体を損傷する危険があり、ダイナミック・ストレッチの方が推奨される。

このほか、マッサージによる圧迫も局所的なストレッチとして有効ではある。腸腰筋はインナーマッスルの類でマッサージは困難だが、唯一、鼠蹊部で弛緩を得ることができる。
ただし、弛緩不全状態の筋肉は圧迫によって痛みを生じるので、患者がマッサージに伴って生じる痛みを嫌う場合があることに注意が必要だ。特に、高齢者ではマッサージによって筋組織の破壊を来たしてしまい、かえって痛みを引きずってしまう場合がある。また、誤って腱性部分を圧迫しないよう注意せねばならない。収縮、弛緩の機能を備えた筋肉と比較すると、弛緩不全に陥った筋肉に牽引された腱性部分は可塑性に乏しく、不用意な圧迫は高齢者の筋肉と同様、組織を破壊するだけに終わってしまい、やはり、後々まで痛みを引きずってしまうからだ。ゆえに、臨床では、弛緩誘導としてマッサージを行うのではなく、キー・マッスルの部位特定やダイナミック・ストレッチの効果判定など、評価の手段として用いるのが望ましい。
ただ残念なことに、外来でこれらの弛緩誘導が奏功して症状の軽減をみても、速やかに症状の再発する場合は少なくない。ゆえに、こうしたストレッチに加えて、種々の物理療法や、筋肉の疲労回復や弛緩、疼痛緩和を図る薬物療法を併用し、相乗効果を狙うと良いだろう。

以上より、過緊張性、低緊張性の弛緩不全を問わず、また、若年者、高齢者を問わず、治療として汎用性が高いのは、ダイナミック・ストレッチであるということができる。そして、先に述べた日本整形外科学会推奨の筋力強化を目的としたエクササイズが、何ゆえ奏功する場合があるかといえば、それは筋力増強による効果として症状が改善するのではなく、ダイナミック・ストレッチとしての効能に負うと考えられるのだ。だが、関節に荷重負荷を与えるそれらの方法は、疲労が蓄積して生じるタイプの関節症には適さないし、エンド・ステージに移行した関節症状にも適さない。かのエクササイズが奏功するのは、全体として特定の条件を満たす限られた症例だけであり、こうしたエクササイズを金科玉条のごとく、十把ひとからげに推奨してのけることには問題があるといえるだろう。そもそも、負荷をかけるということは、運動時における関節の負担や筋腱付着部にかかる牽引力を大きくするので、怪我の元だといえなくもない。
仮に、ダイナミック・ストレッチとしての効果を狙うのであったとしても、それらは免荷状態で行うのが望ましいのはいうまでもないことだ。ゆえに、愚鈍な町医者としては、日整会が推奨するエクササイズが有効である症例を選ぶのに苦慮せざるを得ないのである。