<エビデンスのない話・アフター> | 眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて)

<エビデンスのない話・アフター>

整形外科領域の疾患の大半は、特定の筋肉の弛緩不全によって生じるということを論じた<エビデンスのない話>を最初に著してから二年以上の月日が経過した。当初、その内容には筆者自らも半信半疑の部分が少なからずあり、曖昧な表現でお茶を濁していた箇所もあった。しかし、この二、三年の臨床経験で、そうした曖昧さはほとんど払拭され、町医者の素朴な実感は確信へと変わった。特に、ダイナミック・ストレッチの効用は素晴らしく、オスグッド病やシンスプリントなど少年少女らのスポーツ障害には効果てきめんだった。勿論、ダイナミック・ストレッチはあらゆる年齢層で有効で、他院で大腿四頭筋訓練を指導されて膝痛の悪化した高齢者の変形性膝関節症もまた、外来でのわずかなやりとりだけで、注射を用いることなく症状軽減せしめることができるようになったのである。

新たにわかってきたこともある。筋肉に対する侵襲の少ないと考えられるダイナミック・ストレッチではあるが、脱水状態にある患者では、効果がほとんど得られないばかりか、逆に痛みを誘発する場合があるということだ。もし、ダイナミック・ストレッチを試みて痛みを訴えるようであれば、骨折や神経障害がある場合を除き、ほぼ脱水が根底にあるといって良い。よって、数日かけて脱水を補正した後、ダイナミック・ストレッチを再度施すと、痛みの訴えはなくなってしまう場合がほとんどだ。また、ダイナミック・ストレッチと異なり、スタティック・ストレッチやマッサージの類は、概ね65歳以上には禁忌であるということもわかってきた。この年齢層では、それらの弛緩誘導で後から痛みの訴えが増強する場合が多く、若年者に比べ、筋肉の可塑性が著明に劣化してしまっていると考えられた。故に、牽引療法やマッサージといった治療は、対象を若年者に絞った方が無難であるだろう。しかしながら、若年者であっても、脱水状態にある患者の場合、やはり、それらで痛みの訴えを惹起する場合があることは特記しておかねばなるまい。
ちなみに、ストレッチの習熟についていえば、外来における患者の再現率、即ち習得能力は極めて低いということがわかった。高齢であればあるほど、知らぬ間に思い思いの運動へと変質し、その再現性は低くなる傾向にあるので、外来での定期的かつ頻回の指導が必要だと考えられた。

自画自賛するわけではないが、本論はおそらく整形外科領域の核心を突いており、極めて重要な見解だとは思われるものの、日常、起こってしまった結果をどう手術するかという課題に忙殺されるキャリアを積んだ外科医にとっては、さほど興味をそそる内容でもないようだ。しかし、多くの一般人にとって最大の関心事は、病因と、その予防法である。外科医が一度の手術で救える患者はたった一人でも、正しい病態生理と予防法に関する知識の伝播は、外科医が直接関わることのない大多数を一度に救い得るのだ。多くの外科医がさほど病因に関心を示さない現状では、後輩外科医たちへの啓蒙こそが急務であると考えられた。

総じて整形外科領域の患者でもっとも多いのは、喫煙習慣を続け、水分摂取量が少ない上に、カフェインやアルコールを嗜好する人々である。その場合、ふだんの運動量が多くても少なくても、それぞれ筋肉に過緊張性、低緊張性の弛緩不全を招き、その部位に応じた整形外科疾患を患うことになるのだ。そして、もっとも注意すべきことは、喫煙習慣のある家族と同居して副流煙にさらされる少年少女たちほど、スポーツ障害や思春期側弯症を患いやすいということである。おそらく、小児の股関節疾患の類も、本人の飲水習慣と家族の喫煙習慣とが深く関わっているに違いあるまい。

人は高齢になるに従い、筋肉の緊張を解く、即ち力を抜くことが不得手になってしまうのだ。それは、神経伝達機能の衰退に伴う現象と考えられるが、同様に、小児期は神経伝達機能が未発達であるが故、弛緩不全に陥りやすいという相似性を有している。両者の違いは前者の筋肉が廃用性、低緊張性の弛緩不全を呈するのに対し、後者のそれが疲労性、過緊張性の弛緩不全を呈するということである。そして、青壮年期はそれらの混合型だと解釈され得る。よって、全年代を通じて、ダイナミック・ストレッチによる力の抜き方の体得が奏功するのは、至極理に適っていると言えるだろう。高齢者の筋肉は、弛緩不全領域の拡大のために、縮みしろが少なくて力が出せないだけなのだ。だから、高齢者の筋肉を鍛えることには治療効果を期待できないばかりか、症状を悪化させる恐れもある。もし、負荷を与える訓練が奏功し続けるなら、60歳代のオリンピック・スプリンターがいてもおかしくはないはずだが、そのようなものは存在しえない。ならば、むしろ負荷を与えるのではなく、縮みしろを増やすべくストレッチを施すことの方が、一定以上の筋力を確保する上でも適しているはずであるし、何より無理がない。にもかかわらず、整形外科医が推奨するのは筋力強化訓練ばかりだ。日整会があの手この手でロコモティブ・シンドロームのキャンペーンを行うのは大いに結構なことだが、肝心の治療法で効果が乏しければ、説得力に欠けるというものではないだろうか。

本稿の論理をもってすれば、わからないことだらけの整形外科の外来も、これまでよりずっと多くわかるようになること請け合いだ。だが、その自信をある先輩医師に告げたところ、厳しい戒めのお言葉を頂戴するに至った。確かにそうなのだ。人間、わかるようになったなどと思い上がっていると、足元をすくわれる症例に出くわすことになる。外来で接する症例に対しては、常に謙虚でなければならない。何かを見逃してはいないか、自分たちのやっていることに懐疑的でいられる限り、大きな間違いを犯すこともまた、防ぐことができるに違いない。