眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて) -36ページ目

「続・眠れぬ夜に思うこと」-新世界への展望-No.1<チャート>

本ブログをご理解いただくために、拙著のキーワードを整理しておく。

愛=神=人の根源。
存在の本質。唯一なるもの。永遠にして無限なるもの。思いやり。赦し。感じるもの。裡に在るもの。

エゴ=渇愛=命の根源。
有限なるもの。愛と反する性質。人生の道具。利己心。欲望の源であり、そこから派生するもの全て。独善。怒り。妬み。執着。恐怖。偏愛。他者への願望。排他性。
愛=神を失うことで抑制を失い、悪となるもの。

リセット=転換点。
過去の清算。破壊と創造の分岐点。繰り返しの終局点であり、開始点。カタストロフ。死と再生。

愛の連鎖=思いやりと慈しみの伝播。

人間=愛と渇愛の複合体。
有限と無限を併せ持つ、矛盾した存在。
神を動的表現すべく葛藤を余儀なくされた存在。

エゴが生命の本質であるという概念は、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」を参考にしていただければ、ご理解は容易だろう。
また、人の本質が神であり、我々が神の多様化であるという考え方は、古代インド、ヴェーダ聖典にみられる思想である。
バラモン教やヒンズー教にみられる思想ということもできるだろう。
結局、本稿は、科学と宗教と哲学が融合した思想であると解釈していただければ幸いである。

No.46<理想社会とは>

理想社会とは、具体的にどういうものなのだろうか。
それは、個々の存在が、心に安寧を築き、至福の状態を顕現させた社会であると夢想する。
そこでは皆が利己と利他にバランスを保ち、思いやりによって互いの神性を認め合っている世界だ。
人々は愛に満ち溢れ、己の正体を自覚して生きている。即ち、互いが神の化身した姿であると認めあい、私心を制する。
檻の中でエゴは飼われ、育まれる。そして必要なときに、首輪を付けて連れ立てる。

互いの異質を認め合い、調和が生まれ、そこに新たな創造の営みが育まれる。
一足す一は、二とはならない。男女の結合がそうではないのと同様、愛の結晶という名のもと、新たな息吹が誕生し、一足す一は、三とも、四とも成り得る世界。
社会に満ちた調和の中で、互いの権利は尊重され、愛と正義が復権する。

そこでは、皆が生きる目的を自覚し、争いは個々の内面のみにて消化される。
学校では、孝心と調和が尊ばれ、己が神性を瞑想にて学習する。
科学は唯物論を脱却し、また、霊性の科学を包含し、哲学、宗教との調和が実現する。
その傍らで、犯罪も病も激減する。
政治は愛を取り戻し、人民は無類の繁栄を享受する。与えることで、互いが得る世界。
こうして、世界の文化、思想、政治は概ね調和する。

実は、この「概ね」調和するというところが味噌である。生命の本質がエゴである以上、悪の種は尽きない。人々が愛を忘れ、己の何たるかを忘れた時より、この平和は損なわれるものだからだ。個々の存在が、檻からエゴを解き放てば、再びカオスを招来させるであろう。
完全なる闇夜もなければ、完全なる平和もまたないのだ。

「平和とは、人がエゴを解き放てし時より、失われるが運命。」

No.45<テスラコイル>

エネルギー問題に関連したパラダイムシフトを考える際、現況のテクノロジーでは、もはや八方塞であろう。しかし、私は、その状況を打開し得る新しいテクノロジーについて、まんざら心当たりが無いわけでもない。
もっとも、それを語る場合、未だ一般的認知が得られているとは言い難い存在について、言及せねばなるまい。
それは、地球外文明圏の存在だ。

ドレイク方程式によって、地球外知的高等生命体が、地球に飛来している可能性を否定する立場は多い。ドレイク方程式とは、簡単な確立変数の積で表される方程式のことである。
これは天文学者フランク・ドレイクが、銀河系内で、我々と通信可能な文明社会を持つ星の数(=N)を計算する式として提唱したものである。
それは、N=N*×fp×ne×fl×fi×fc×fLで表され、個々の変数は、次のごとくである。

N*:私たちの銀河系に存在する恒星の数
fp:その中で惑星を持つと予想される恒星の割合
ne: 任意の恒星系で生命が発生する環境を持つ惑星の数
fl:実際に生命が発生すると予想される割合
fi: 知的生命体が発生すると予想される割合
fc: その知的生命体が文明を発達させ、適切な通信手段を獲得する割合
fL: その文明が自滅せずに寿命を全うする割合

この式に代入される変数によって、我々が異星人と通信できる可能性が考慮されるのだが、通常、それは限りなくゼロに近い。またそれは、fcを、「適切な宇宙航行手段を獲得する割合」に変えても同じことである。
しかし、ある視点を取り込むことで、この可能性は、全く異なる様相を呈することになる。
それは、宇宙や生命の進化においては、諸事象の発生原因を偶然に求めるのでなく、ある種の志向性が存在していると容認する価値観である。

この価値観によれば、ne以下の変数は飛躍的に増大し、我々の文明と同期して、近隣惑星に高等文明が存在していたとしても、全く不思議なことではなくなってくる。
以前に、救急外来における症例のシンクロニシティーが、通常起こり得る確率をはるかに超えているという実感を説いた。見えざるこの因果律の存在に注意を向ければ、異星人が、何らかの形で我々とコンタクトしていたとしても、それほど不思議なことではないように思われるのだ。

一説によれば、彼らの飛来目的は、科学的調査であるとともに、地球世界の救済でもあるのだそうだ。
キューバ危機を救うお膳立てをした可能性を指摘する声もある。また、聖母出現に関わる幾多の奇跡を演出してもいるという。
実際、考古学的な謎の解明に際し、彼らとの交流を認めてしまう方が、論理的な齟齬を来たさずに済む場合が多い。こうした存在を容認する方が、この種の謎に対し、一元的な説明で事足りるのだ。
目撃証言や遭遇体験談それ自体には眉唾も多いと感ずるが、こうした理由により、現時点で、私は彼らとの交流が実在するという立場を支持している。

ところで、彼らの宇宙航行テクノロジーは、空間に潜んだエネルギーを扱うものなのだそうである。また、それは永久機関でもあるという。
これは大変興味深い。なぜなら、現代物理学は、永久機関の存在を否定しているからだ。
しかしながら、我々は、身近にこの永久機関の存在を認知するという矛盾を抱えてもいる。
それは、宇宙の存在そのものである。宇宙の存在それ自体は永遠ではないかもしれないが、そこで暮らす我々にとっては永久機関に他ならない。
実は近年、宇宙物理学や量子力学は、宇宙の発生や膨張を説明するために、真空中のエネルギーを仮想しはじめている。空間それ自体がエネルギーで満たされており、そのエネルギーによって、宇宙が膨張していると説明するのだ。また、その歪みを重力の原因にさえ求めてもいる。

このことは、異星人が有するといわれるテクノロジーが、重力を制御可能なものであるということを示唆している。そして、UFOの目撃談が語られる際、その独特の航跡を説明するのに、重力制御装置の存在が古くから指摘されており、これらの事実は互いに矛盾しない。

実は、この地球でも、テスラコイルを応用した装置によって、フリーエネルギーの獲得に関わる研究があるという。
このテスラコイル自体は特別なものではなく、交流電流を発明したニコラ・テスラが開発した共振変圧器のことである。
しかし、この研究については、後を引き継いだ科学者たちに対し、いくつか妨害工作が行われた事実があるようだ。

以前に説いた世界の巨悪。彼らにとって、異星人やそのテクノロジーの実在が世間に知られるのは、都合が悪いということができる。
なぜなら、その存在は、エネルギー問題を解決してしまうばかりか、我々に地球人としてのアイデンティティーを確立させ、地上での紛争に意味を失わせてしまうからだ。
ひょっとすると、彼らのエゴが、こうした新しいパラダイムの到来を阻んでいるのかも知れない。

いずれにせよ、個々の存在が愛と正義によって立ち上がるとき、その連鎖は巨大なうねりとなって分厚き璧を突き崩し、我々は待望の理想郷を手に入れることができるであろう。
そして、それは、そう遠い将来のことでは決してないと私は感じている。

参考図書 横山信雄/加藤整弘「フリーエネルギーの挑戦」

No.43<世界の巨悪>

[いよいよ、世界に隠然たる勢力を誇る巨悪の存在に焦点を当ててみることにしよう。]

確かに、この世界で、絶対悪は存在しないのかも知れない。しかし、抑制を失ったエゴという形でなら巨悪が存在する。
今日、ソビエト崩壊によって、アメリカ専横型の世界支配がほぼ確立されたといえるのかもしれない。通常、覇権国家の独裁が確立すれば、世界は平和になっても良さそうなものだ。しかし、現実には正反対の方向へと向かっている。
この潮流を作り出している原因はどこにあるのだろうか。

イラク戦争をしなければならなかった理由は、大量破壊兵器の存在でなかったことは明らかだ。そもそも、スコット・リッター氏の証言で、それはまぎれもない事実であったといえよう。氏の証言こそ、信頼に足るものだと私は思うからだ。
911の惨劇で、ユダヤ人死傷者が極めて少ないことをご存知の方も多いことだろう。この日は彼らにとっての安息日であったためだ。そして、アメリカの世界支配を突き動かしているものの正体こそ、ユダヤが操る軍産複合体であると指摘する声は少なくない。

一連のアフガニスタン、イラクの戦争で、誰が一番得をしたのか。これは、難解な事件の犯人を割り出す上では初歩的な手がかりとなる。
中古の武器弾薬を大量消費することで高額の利益をあげ、新型兵器の宣伝を行う舞台として、かの地は格好の標的になったのではあるまいか。所謂、死の商人達の暗躍だ。
これら死の商人達の表の顔。それは、名前を聞けば誰もが知っている航空機会社や、自動車会社、IT関連企業だ。実に、世界トップ20の軍需産業のうち、過半数をアメリカのそれが占める。彼らにとっては、世界平和こそ、その既得権を脅かす悪なのだ。

もっとも、こうした企業に従事する個々の存在に罪はないのかもしれない。結局、企業や国家のエゴが、抑制を失っているだけのことなのだ。こうした存在を敵にみたてて打ち消してしまうことは決してできない。彼らの背後には、それを支える善良な市民の素朴な営みが無数にあるからだ。
とすれば、彼らの体質を内側から瓦解せしめるしか平和への道はない。結局、個々の存在の変容によらざるを得ないのだ。

これら軍需産業のエゴによって生み出される犠牲者は、誰にとっても、見ず知らずの他人ではないという認識を皆が自覚することが肝要だ。
戦争で失われる犠牲者は、加害者にとっても、かけがえのない最愛の人物達であるばかりか、自分たち自身に他ならないという認識だ。
我々が作り出す無数の惨劇は、いつの日か必ず自分にふりかかってくるものだからだ。
相手に突きつけたはずの銃口は、己自身に向けられたものであるという認識を、個々の存在が自覚すべきであろう。

「平和。それは、争いと争いの間に横たわった奇跡の瞬間。命の本質がエゴなれば、人が愛を忘れしときより失われるが運命。完全なる平和もなければ、完全なる闇夜もまたない。されど、闇夜にこそ、神は煌くものと知るべし。」

No.42<嫉妬とエゴ>

これまで、エゴの派生物として、欲望、偏愛、執着、恐怖、怒りを説いてきた。
エゴには、もう一つ、無視できない重要な側面がある。
それは嫉妬だ。

嫉妬とは、他者の優位に対する妬みである。おそらく、この感情は自己の優位を示して異性からの愛情を勝ち得、自己増殖を促そうとする本能に由来すると考えられる。
その本能こそ、他ならぬ生命のエゴに由来するものであろう。
故に、嫉妬もエゴの一側面であるといえよう。

巷では、超能力と呼ばれる特殊技能に関して、その実在の是非を問われることがしばしばある。私は、その存在を実感している立場だ。
一方、この種の話題に対しては、著しく懐疑的、ないしは否定的な立場をとる御仁がいる。
私は、この世では、ないと言い切ってしまうことにこそ、難しさを感じている。
ないと結論するのは、極めて難しいからだ。なぜなら、それは、たった一つの反例によって覆されてしまう見識でもあるからだ。

この種の否定論者には、こうした能力に対する恐怖心と嫉妬心が働いているように思われる。
仮にそうした能力が実在したとすると、それは人の能力を評価する、新たなパラメータに成り得てしまうことだろう。
確かに、開発次第で誰でも手にすることができるのかも知れないが、既存の知的能力や運動能力と同様、ここにも優劣の競争や差別が生じてくると予想されるからだ。

否定論者の大多数が、自分自身にその能力が希薄であることを、潜在的に自覚しているのが、主たる否定の理由ではなかろうか。
つまり、新しいパラメータの台頭により、彼らが築いてきた権威に傷がついてしまうことを、盲目的に恐れているように見受けられるのだ。
彼らは、その実在が認識されてしまうことに、著しく恐怖し、場合によっては、激しく嫉妬しているのではなかろうか。
でなければ、こうした対象に対し、否定的見解を固持する必要はないと考えられるからだ。
ここにもエゴの功罪が働いているといえよう。

他方、こうしたジャンルには極めて肯定的な方々が存在する。実は、こうした存在も、なかなか厄介な場合がある。
なぜなら、彼らは、容易に霊感商法の餌食となり得るからだ。
こうした霊妙なる事物やその存在の真偽を見抜くのには、極めて理性的な慧眼が必要となってくる。
それを持ち合わせていないのなら、否定論者のいうように、これらを全否定したまま生きる方が、どれほど安全かわからない。
結局、全否定、全肯定とも、幼稚さ故の厄介なエゴの表れなのだ。

けれども、我々はそろそろ大人になっても良いころだ。危険な道具を扱う術を学ぶべき時が、すぐそこまできているのではなかろうか。
いつまでもパンドラの箱に蓋をしておくことはできまい。

No.41<真贋論争>

私は、超常現象の存在を支持している立場だ。他方、こうした存在を否定してしまう立場を理解することも、またできる。
実際、現在の唯物論的価値観が支配的な社会においては、後者の立場をとる方が、何かと無難ではあるからだ。

私は、人の本質とは、見た目の生命現象を超えて尊いものであるという認識を説いてきた。同時に、この世のあらゆる存在に意識が宿り得るということも説明してきた。
私は、超常現象の存在こそ、こうした認識を証明し得る証になると考えている。

他方、こうした現象には再現性が不確実なため、科学的でないという意見を耳にする。
果たしてそうなのだろうか。

本来、科学とは、まず現象の存在を認めるところから始まる。通常の感覚では理解し難い現象を認め、その何たるかを追究してこそ科学であろう。
然るに、こうした立場をとる御仁たちは、そうした事実を、頭から否定し、その可能性について一顧だにしない。
けれども、こうした現象が存在しないということは、先験的に自明の理であるとは言い難い。

ほんの少しばかり歴史をさかのぼると、地球は宇宙の中心であることが「科学的常識」であった。こうした立場にとって、地動説は、考慮の余地すら与えられなかったのだ。
我々が何かの事実を認める上では、先見的に持っている何かの感覚を犠牲にしなければならない場合がある。

例えば、地球は丸いという感覚も、日常的な感覚からは支持されていなかった時代がある。
これが覆るために、我々は長い時間を必要とした。
けれども、先に述べたような、科学的に謙虚な姿勢が巷にありふれていれば、我々が真実を手にするのに、それほど時間を要しはしなかったことであろう。
(恐ろしい話だが、ゆとり教育の偉業により、昨今の小学生においては、高い割合で地球が平らであると未だに信じているのだそうだ。)

超常現象の是非についても、同様のことがいえるのではなかろうか。まず、存在の可能性を探るところから科学が始まるはずだ。
こうした霊妙な領域については、謙虚に探求して行く姿勢が肝要だ。
然る後に是非の判断を下すことこそ科学的だといえよう。
盲目的に現象を否定する科学者の態度は、幼稚の極みといえるのではあるまいか。

No.40<パラダイムシフト>

聖書中の預言にある、大艱難の到来を信じておられる方々は、意外に多い。こうした方々は、同時に、カタストロフの後、新世界に新しいパラダイムに支えられた理想郷を夢想する場合が少なくない。

しかし、こうした聖書や教義を絶対視する姿勢に対し、私自身は極めて懐疑的だ。それは、何度も述べているように、これらが後世の人間の手によって、都合よく書き換えられている可能性を否定しきれないからだ。

我々の住む実社会には、表と裏の側面がある。裏の世界の存在は、聖書をとりまく背景にも、同様のことがいえる。
つまり、遠い過去の時代から、連綿と受け継がれている聖書信仰と、その絶対化を促す団体の存在が示唆される。
これを、秘密結社などと呼べば、たちまち荒唐無稽と指弾されてしまいそうだ。しかし、そうした団体については、知れば知るほど、その存在が浮かび上がってくる。

聖書周辺には、これを人民が絶対視するよう導こうとする、明らかな意志をもった団体が、その存在を指摘されている。彼らは、聖書中の預言に関しても同様に、それをこの世界に実現させようと暗躍している。
これを、まったく奇異なことと切り捨ててしまうことはできない。
オウム真理教が、地下鉄サリン事件を起こした背景には、まさに、こうした教祖の予言を成就させんと欲する意志の存在が指摘されていたからだ。

歴史の浅い新興宗教においてすらあり得るのだ。まして、数千年の歴史を誇るユダヤ=キリスト教において、そうした団体が存在しないとどうして言い切れるだろうか。
私が、聖書や宗教を絶対視しない理由は、まさに、こうした理由による。
聖書といえども、都合よく書き換えられている可能性があるからだ。
教義についても、また然り。
彼らの目的は、聖書預言に乗じて、現世的利益を得、その世界支配をゆるぎないものにしようとすることにある。その背後には、ユダヤとつながる兵器産業界があると指摘する声も少なくない。
つまり、ここにも、エゴの功罪が存在しているといえるのだ。

資本主義にせよ、新しい経済システムにせよ、パラダイムを支えるのは、結局、血の通った人間だ。リセットの後に残された人民だけが、都合よく覚者の集まりになるなどというのは、極めてリアリズムに欠ける幻想ではなかろうか。
実は、数年前まで、私にもこうした幻想を抱いていた時期があった。
けれども、結局、そうした幻想の背景には、忌むべき選民思想があり、先刻述べた秘密結社の導きに惑わされているだけであるという認識に思い至った。
やはり、我々が信奉すべき最も現実的な救済は、人が、己の存在の何たるかを自覚し、愛と秩序を、個人や家庭、あるいは社会に復権させること以外にはないと私は信じている。

唐突なようだが、私は巷でいうところの超能力の存在を信じている。けれども、これが無理なく世間に受け入れられるためには、個々の存在の霊的自覚が不可欠だとも考えている。
つまり、個々の存在の変容により、社会が成熟し、こうした霊妙なる領域の科学を、文化として容認できる度量の獲得が不可欠だと考えているからだ。
もし、それが叶えば、現況に行き詰まっている諸問題には、劇的な転換がもたらされ得る可能性があるとすら予見している。

であるなら、パラダイムの転換に、カタストロフは決して必要であったり、予定調和であったりすることはないのではあるまいか。
やはり、転換をもたらし得るのは、他ならぬ我々個々の変容にあるということだ。

No.39<幻想>

今日の社会が何らかのリセットを迎えるのは必至であり、同時に、現況の資本主義が、崩壊、破綻し、全く新しいパラダイムが台頭するという幻想が巷で囁かれている。

人類は、集団として巨大化しすぎ、いかなる政治や指導者の手にも負えなくなっているように見える。
我々個々の意識や、社会が衰退してしまった原因は、この巨大化により、上からの制御が不能となってしまったことが一因に挙げられよう。
それ故、リセット後に残された小集団を何らかの体制で支えることができたとしても、そこには歴史のやり直しが待っているだけなのではなかろうか。
つまり、リセット後の新社会も、いずれ巨大化して、今日の我々と同様の問題を抱え得るように思われるからだ。

結局、マジョリティーを上手く統制できるシステムであるか否かによって、その真価が問われよう。となれば、夢想家がそのような小集団を仮想することこそ、ナンセンスなのではあるまいか。

一方、私はこうしたリセットが、超古代より繰り返されてきた可能性を信じている。
未だ、考古学には謎が多く残されており、私の主張を全く否定してしまうことはできまい。
そして、我々が遭遇している現況は、過去に何度も繰り返されてきたことのように私には感じられるのだ。

他方、このカルマを超えるべきときが到来しているようにも感じている。
だからこそ、私はリセットの危機を感じながら、これを容認しない立場をとっている。
とはいえ、いくばくかの艱難をやはり経験せざるを得ないのかもしれない。
けれども、個々の意識の変容こそが、その規模と犠牲を最小限に抑え得ると私は信じている。

結局、いかに優れたシステムも、個々の意識が総体となってこれを支えているのであって、その変容なくしては維持できまい。これらを別個に論じることはできないと私は強く思う。

No.38<お金は愛の一側面>

裕福な家庭やその逆に生まれ出でるという不平等は、前世の因縁によって説明され得ることだろう。
また、努力して富を築いた場合、それは、他者から相応な愛をお金という形で受け取っただけのことだと私は思う。
企業家が成功する場合、こうした愛情を世間からいかに得るかということが鍵だと思われる。

けれども、それが他人を欺くことで不当に搾取されたものならば、速やかに返還せざるを得なくなることだろう。
億万長者として生を得た場合も同様で、感謝や孝心を忘れたときより、必然的にそれらを手放さねばならなくなることだろう。

他方、受け取った愛を、何らかの方法で世間に還元するなら、そこからさらなる愛情を得ることができるのではなかろうか。
これこそが、カーネギー成功哲学の真髄であろうと思われる。
これはまた、芸能人にみられる栄枯盛衰が、解りやすいモデルとなっていよう。

今日、世相を支える個々の意識の中で、愛が弱体化してしまったが故、こうした法則が機能しにくくなっているように見える。
つまり、いかに理想的な経営に励んでも、市場に反映された愛情の欠落によって、その繁栄が阻まれてしまうのだ。
これこそが、今日の日本経済に未曾有の停滞を招いた原因なのではなかろうか。

では、具体的にどうすれば良いのか。
それこそ、私が繰り返し説いていることだ。
即ち、個々の存在が、己の意識に愛を復権させること。
個々の意識に安寧を築き、家庭に秩序を再生させ、ひいては社会に愛と調和を復活させることなのだ。
お金も愛も、与えることによって得られるものなのではなかろうか。
そして、こうした考え方にリアリズムが伴うか否かの鍵は、我々一人ひとりが握っていることを再度強調したい。

参考図書 アンドリュー・カーネギー「富の福音」

No.37<資本主義は限界か>

資本主義にせよ、社会主義にせよ、それらは、我々個々の意識と独立した存在ではない。
つまり、体制を実際に支えるのは、法でもなければ理屈でもない。血の通った我々個々の人間の意識であって、それらを別個に論じることはできまい。

なぜ、社会主義国が崩壊したのか。それは、そこに住まう人民の意識が、社会主義を拒否したからに他ならない。世界の中で、全く独立した経済システムを維持するのは困難だ。資本主義が優勢を極める実情に対し、社会主義が劣勢を強いられたための崩壊だと思われる。
その社会を支える個々の意識のありようにそぐわなかっただけのことではあるまいか。

つまり、今日の社会は、自分さえよければいいというエゴが優勢であるが故、資本主義が圧倒的な力を持ち得たのだと私は解釈している。
これはまた、現代において、なぜ、「和」を経営理念に掲げていた会社に倒産が多いのかをも説明できる。結局、社会が抱えている実情にそぐわなかったためではなかろうか。つまり、その社会を支える個々の意識が、強固に利己的となっているための悲劇なのだと思われる。
本来なら、愛されるべきはずの企業が、相応な愛を得られなかったが故の悲劇であると。

これはまた、今日資本主義が行き詰まりをみせていることの理由も説明できる。
個々の企業がエゴを過剰に主張しすぎた結果、癌に侵された肉体が滅びるのと同じように崩壊しようとしているのではなかろうか。
即ち、「エゴを主張しすぎると、他者と共存不能に陥って自滅する」を、そのまま具現化しているのだと私は思う。
個々の意識について語った私の主張は、そのまま、企業や国家、あるいは社会体制にも適用し得るということなのではあるまいか。

一方、個人レベルで利己を統御することは、理性の働きによって可能ではある。しかしながら、企業や、さらに大きな組織となれば、そう簡単には行かない。
結局、組織のあり方を決定しているのは、他の誰でもない、その組織を形成している個々の意識なのだと私は思う。

平均的な人のあり方が、エゴと向き合うという目的を見失いつつあることが問題なのだ。
だからこそ、この最小単位の変容を訴えたいのが私の立場だ。
利己と利他、どの程度を程よきとするかは、個々の意識における覚醒の度合いによるのではなかろうか。
それ故、より多くの意識が覚醒すべきであるというのが私の主張だ。