眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて) -38ページ目

No.26<病の原因>

我々医者は、病気の原因を考える際、一元的であるよう教育を受ける。
人の体は千差万別で、たとえ原因が同じでも、個々の肉体によって、多彩な症状を呈するからだ。
個々の肉体に生じた病を考える場合も同様に、我々は多元的に考えることはあまりない。多彩な症状に惑わされず、その根本的な原因を導き出そうとする。
そして、この種の本質的な病因が不明の場合、対症療法と称し、個々の症状にそれぞれ多様な治療が施される。
けれどもこの対症療法は、病の根が深ければ深いほど、あまり効果が期待できない。なぜなら、本質的な問題を解決できないからだ。

然るに、現状の社会が抱える諸問題を論ずる際、そこで繰り広げられる議論の多くが、対症療法に過ぎない場合が多い。
それは、世界の存在意義や人の存在目的といった、根源的な問題に手をつけることなく語ろうとするからだと私は思っている。
そういうスタンスでいかに問題を論じたところで、行き詰まるのは目にみえていよう。

今日、社会が抱える根深き病の原因は、抑制を失ってしまったエゴにあることを説いてきた。けれども、それはエゴを全否定しているわけではない。より深きエゴは、より大きなエネルギーと成り得るからだ。欲望はエゴの派生物だ。けれどもそれは、人が生きる活力の源でもある。故に、これらを全否定してしまうことは決してできない。

我々は、エゴに敗れることなく、正義を顕現するよう余儀なくされている存在だ。それは、個人であれ、企業であれ、あるいは国家であれ、何ら異なるものではあるまい。
それが叶う時、我々は至福を味わうことができるのだと私は思う。
また一方、その戦いに敗れ去るとき、そこには悲劇が待ち構えていることだろう。

今日、世界が勝負の分かれ目に立ち会っているということができる。
それ故、勝利の美酒をこそ味わいたいと切に願う今日このごろである。
では、そのための具体的な処方について、その詳細を語ってみることにしよう。

No.25<究極のアイデンティティー>

互いの相違を自覚する上で、国籍意識をもつことには意義がある。また、世界で自分の立場を認識し、庇護を得るために、この意識は是非とも必要である。

けれども今日、そうした国家の庇護を得なければならない原因はどこにあるのだろうか。
突き詰めて考えれば、互いに異なるイデオロギーが、際限なく自己主張をやめないことに由来するからではなかろうか。

そして、こうした状況を招いている原因は、歴史的、民族的背景を含めた教育そのものにあろう。愛国心を強調するのもよいが、その際、異なるイデオロギーを尊重するという姿勢も同時に教育すべきである。
でなければ、偏った自国へのアイデンティティーなど争いの種にしかなるまい。

世界で行われている無数の紛争も、視点を変えれば、東京人と大阪人が殺し合いを行っているのと大差ないように思われる。
かつてそういう時代があったにせよ、今日、そうした争いがないのは、そこに、東京、大阪という意識を超えた、日本人という認識があるからではなかろうか。
ならば我々も、日本人、あるいは韓国人という意識を維持するのに精を注ぎこむのでなく、地球人であるという感性をこそ、養うべきである。
これを観念的だと切り捨ててしまう立場もわからなくはない。
しかし、こうしたパラダイムの転換を担う役割を負うものこそ、また教育なのではなかろうか。

一方、私は、国へのアイデンティティーを否定する気は毛頭ない。
強いていえば、行き過ぎた国粋主義にこそ、警鐘を鳴らそうとしているだけである。
国へのアイデンティティーは、ともすれば偏狭な価値観を生み出すことになるからだ。
確かに我々は、所属する集団によって、様々なアイデンティティーを抱えることになろう。小さなところでは、職場であり、大きくは、郷土であったり、国であったりだ。

私の主張は、こうした種々のアイデンティティーを排してしまうのではなく、地球で生命活動を営む者としてのアイデンティティーにこそ、目覚めるべきではないかということだ。
国を愛するとは、国のエゴを主張するための手先になることではない。
それをすれば、それは、もはや愛ではなく、偏愛という名のエゴに過ぎない。

また、異なるイデオロギーを尊重すべきという意見に対し、北朝鮮のような独裁政体が、他のイデオロギーを容認すれば、自国の体制を維持できないのではないかという指摘がある。
果たしてそうだろうか。

北朝鮮のごとき独裁政権は、名君が善政に務めれば、あるいは自由主義政体を上回る繁栄を築く可能性を秘めているのかもしれない。
なぜなら、ドラスティックな改革を瞬時に断行できるからだ。
仮に、自由主義政体と互角か、それを上回る繁栄を築けていたなら、互いのイデオロギーを認めることも、決して叶わないことではなかっただろう。

問題は、実情が衰退の一途を辿っていることにあると考えられる。
その原因は、主君と民衆のエゴが相克し、それらが互いに制御不能に陥ったためではなかろうか。
それは、かの国が、いかに他のイデオロギーを排そうが、あるいは認めようが、避けられるものではなかったように思われる。
君民共治の叡智が主君と民衆の双方にあれば、別の姿を我々に垣間見せていたかもしれまい。

他方、こうした国々の衰退は、案外、我々の未来であるのかも知れない。我々の資本主義体制も、自己主張を続ける癌細胞に侵されたかのごとく、節度を失った互いのエゴによって、瀕死の体だ。

しかしながら、私はエゴを全否定する気にはなれない。エゴから派生する種々の欲望は、実生活を営む我々の活力源でもあるからだ。

私の主張は、これらを排すことではなく、そのよき主人たれということに尽きる。
そして、その手綱となるものこそ、個々の存在がその内面に築く、他者への思いやりであり、誠の愛であると。
ならばエゴとは、捨てるものではなく、統べるものである。そして愛とは、植えつけるものではなく、育てるものだといえるだろう。それはまた、国を愛する心も同様である。

No.24<希望>

戦後数十年にわたるこの国の教育は、一部の支配者に隷従する、有能な下僕を大量生産するために費やされてきた感がある。
その中で、若者達は思考が平坦になってしまい、チャットや2chに代表されるように無機質で衝動的だ。
そんな彼らに、世界の殺伐とした凄惨な歴史を是非学んでもらいたいと思う。
けれどもその際、私はこれが日本人のしてきたこと、アメリカ人のしてきたことという観点で歴史を認識して欲しくはない。
それらは全て、人が人に対して行った残虐行為であると認識して欲しい。

よく、過去にアジアで犯した日本人の罪が取り沙汰される。
けれども、その罪を直接負うべき人間が、現代日本に何人いるというのだろうか。
同時に、過去、二度にわたる原爆投下と本土絨毯爆撃による日本人の大量虐殺を行ったアメリカ人のうち、今現在、何人がその罪を負うことができるというのだろうか。
ほんの半世紀もたてば、当事国を構成する人民は、ほとんど様変わりしてしまうのだ。
と同時に、歴史認識すら危うくなってしまう。
どれほど多くの文献をひもとこうが、所詮、歴史的真実は全て藪の中である。

日本人は、「罪を憎んで人を憎まず」、「人を呪わば穴二つ」、「憎しみは憎しみしか生み出さない」という認識を、ほぼ先見的に備えた、稀有な国民性を有している。その「人の良さ」は驚異的で、世界に類をみない。
おそらく、長い鎖国による閉鎖的な営みが育てた、他者と争わないための独特の感性なのだろう。
現在、押し寄せるグローバリゼーションの荒波の中で、世界が一つの島国と化そうとしており、この独特の感性が何らかの形で輸出される必要があるのではないかと考えられる。
幸いなことに、冒頭で非難した現代教育は、若者に日本人であることのアイデンティティーをとことん希釈させてしまった。けれども、私はこれも一つの好機だと捉えている立場だ。

今、世界中で頻発するテロも、アメリカの一方的な虐殺も、全て、人が人に対して行っている残虐行為である。これを理解するためには、歪な国粋主義が邪魔になる場合もあるからだ。

次世代を担う若者達には、過去の憎しみを植え付けるのではなく、アメリカ人、日本人、あるいはイラク人と、この世界に住まう人々を色分けするのが、いかに無意味であるかを学んで欲しい。
そして、この日本人の優れた感性をこそ、学校で教育し、世界に発信していって欲しいものだと願わずにはいられない。

若者が愛国心を取り戻すのに、法の助けは不要である。それは植えつけるものではなく、育てるものだからだ。渇いた心に誠の愛を注げば、砂漠に咲くサボテンの花のごとき強靭な力を取り戻すことだろう。

No.23<不愉快の原因>

[互いに等しく神の化身であるはずの我々が、相手にみる敵の姿。その正体を問うてみる。]

我々は、他者の発言によって不愉快になることがある。しかし、この感情の原因は、相手の発言ばかりによるものではなかろう。

我々が相手に対して敵意を抱く場合、そこにあるのは真実の敵ではなく、心のうちに作り上げた虚像であることが多い。相手はきっとこの程度といった思い込みだ。
しかし、その虚像の正体は、己自身の自己投影に他なるまい。けれども、我々は、なかなかその事実に気づくことができない。

日常で、我々が認識できていると考えているものは、そのほとんどが思い込みなのではなかろうか。
例えば、テレビでみかける芸能人。彼らは、テレビの中では、自分の役割を演じているにすぎない。我々が見ているのは彼らの虚像に過ぎず、実像は全くもって不明だ。
元来、人の実像とは、本人すら認識できないものだからだ。

我々には、他人の目からみた虚像が存在する。他方、自分とはこういう存在だという思い込みも、また虚像に過ぎない。そして、それらとは別に、真の実像がある。
結局、「私」が、「私」であるという認識も思い込みであり、虚像なのだ。それ故、人の本質が神であったとしても、それを認識することもできぬかわり、否定することもまたできまい。

我々が不愉快を感じる際には、相手に敵の姿をみているのかもしれないが、それは己自身が作り上げた虚像なのだ。確かに、人や事物の実像を知ることは難しい。しかし、対象を深く吟味すれば、虚像から、実像へと認識を近づけることができよう。己の見解とは異なる意見と相対した際、そこに敵意をいだくのは子供のすることだ。大人であれば、新たな視点の獲得と解釈して楽しむことができるはずだ。
例え己が非難されることがあったとしても、これを自分に対する全否定ととらえて敵意を抱くか、新たな価値観の発見として謙虚に受け止めるのか、人としての度量が試されているのではなかろうか。
己の感じる不愉快に対して、同じ無礼で復讐するのでなく、相手の毒を咀嚼して解毒し、自分の考えを表現するのか、あるいは黙秘するのかといった態度が肝要であろう。

互いに異なるイデオロギーが歩み寄れば、それは新たな創造のきっかけにも成り得る。他方、互いがこれを全否定して排斥しようとすれば、それは破壊と悲劇の道に通じることだろう。

No.22<人の根源>

教育問題を含め、現代の世相が抱える諸問題は、個々の権利を主張する場面を勘違いした結果、引き起こされたものなのではなかろうか。
状況をわきまえぬ権利の主張が、調和を乱すエゴそのものであるという認識の欠落が生み出したもの。今日の状況は、過去に男性中心であった社会が、戦争を引き起こしたが故の反省から生まれたものであろう。ただ、男性視点に対する否定が行き過ぎただけの結果である。

つまり、過去の男性中心社会における家長の概念にも、少なからず弊害があったということだ。行き過ぎた家長の権威が、最終的に争いを生み出したといえなくもない。
我々の社会は、決して後退しているわけではないのだ。個々の時代に、それぞれ反省と教訓がある。
我々は一点のみに捉われず、幅広い視野で真理を追究せんとする謙虚さを持つべきなのではなかろうか。

私は、この世のあらゆる存在の意識の中に、皆、等しく神性が備わっていると信じている立場だ。けれども、我々の多くが、物欲に捉われ、エゴに支配されているが故にこれを見失っているだけである。現在の世相は、互いの意識に潜んだ神性を見失っている。しかし、もともと我々は、その一人ひとりが尊い存在なのだ。

私が主張したいのは、家長の復権、男性視点の回復のみにとどまらない。
混迷を続ける現代であればこそ、各自の自覚が必要なのだということ。
一人ひとりが、己のエゴに打ち克って愛を示すことがかなうなら、現況の諸問題は、その全てが、改善の道へと歩を進めることができるであろう。
元来、この世界に無関係などあり得ない。世相とは、我々個々の意識が総体となって現れたものにすぎない。個々の存在が自分の神性を自覚することで、世界が変容するのだ。

宗教とは、たった一つの真実が、語り部の表現によって多様化しただけの存在ではなかろうか。それらは、月日とともに信者達のエゴによって歪められ、互いに相容れることがかなわなくなっただけの思想であると解釈され得る。
従って、本質的には同根であるといえよう。
故に、それら全てに共通した見解があると考えられる。

それは、人間とは、たった一つの存在であった神が、己の本質である愛を自己表現するため、その素性を忘れて、この世界に多様な姿で存在しているものだという認識だ。
一見、多様な人格、意識を有しているようには見えても、皆、その本質は神であるという認識。
そして、我々の意識がこの世界でよりどころにしている生命こそが、その対極にあるのだ。

ご存知のように、我々の生命現象の主体である肉体は、遺伝子に拘束されている。
DNAは、自分の複製を、より安全に、後世へ残すことしか興味がないというエゴの塊だ。我々の多様な身体的特徴も、もとをただせば、たった一つのDNAが、自己保存のために多様性を獲得した結果であるともいえる。

生命の本質であるエゴを抱えて、人の本質たる神を表現することを余儀なくされた存在。
この自己矛盾を携え、愛の力でエゴを御して生きるべき存在が、人間であると私は信じている。
このため、生きている以上、エゴを排すこともできず、悪の種も絶えることはない。
けれども、神や愛が、完全に廃れてしまうことも、またないのだと私は思う。
人間は、生命の本質がエゴなれば、性悪説をもって説明できる存在なのかもしれない。
しかし、人の本質が神なれば、性善説もまた、真実の一側面を示しているということができよう。

No.21<命の尊厳>

確かに、我々は他の動物と比較しても、稀に見る程エゴ深き存在だ。それ故、抱えた自己矛盾も大きい。しかし、エゴを御する高次機能は、人のごとき清明な意識によってしか成し得ないかといえば、そうでもあるまい。

あらゆる生命が、皆、等しく神性を表現している。これら無数の生命の営みは、食物連鎖によって結ばれている。
そこには、究極の自己犠牲の連鎖が表現されているのだと私は思う。そして、この自己犠牲もまた、愛の一側面なのだと。
それ故、人が特別偉大なわけではなく、単に、そうした連鎖の頂点に立つことを許された責任のある存在であるというだけのことだ。
ならば、あらゆる生命が等しく尊ばれるべきだ。食卓に並ぶ尊い犠牲には手を合わせる必要があろう。そこに並ぶ料理の一品一品が、全て神性の顕れだからだ。

一方、痴呆や心の患いによって、精神の正常を欠く場合がある。また、死を目前に控えた高齢者の場合、それが表す高次機能の働きをみることは極めて稀だ。
人や他の命の存在に、神性を見出すことを否定してしまうと、こうした対象の存在意義を見失ってしまうのではなかろうか。

以前に、老いや病で、身動き一つままならなくなった方々を介護するその手にこそ神が宿るということを私は説いた。つまり、病や老い、哀しみ、苦しみのあるところにこそ、神は煌くのだと私は信じるからだ。
我々が介護しているはずの相手は、他ならぬ自分自身であるということを忘れてはなるまい。病める方々もまた、神性の表現者だからだ。
与えているようで、その実、得ているのは、他ならぬ我々なのではあるまいか。

N0.20<長崎の事件に思うこと>

[長崎で、女子小学生が同級生を刺殺した。原因には諸説あげられているが、それらは、我々と無関係ではない。個人や家庭、ひいては社会へと蔓延した愛情の欠落が引き起こした惨劇ではなかろうか。]

この事件の原因として、インターネットの弊害が挙げられている。
ネットそのものは悪ではないのだが、ツールとして、極めて危険な側面があると認識せねばなるまい。

特に、掲示板やチャットの世界では、相手の見えない匿名性ゆえ、無作法や非礼が横行し、抑制を失った感情のやりとりが日常化している。子供たちが、それを大人のすることだと認識するのは大変危険だ。
大人たちがその危険を十分認識して、日ごろから密な対話を心がけるか、さもなくばPCを触らせないことが肝要であろう。

一方、そうしたネットのありようを生み出している社会、ひいては我々個々の存在にも責任はあるのだろう。誰しも、日常で憤怒の念を持て余すことはしばしばであり、時にはそれを表現してしまいがちだ。こうした個々の意識が、総体となって世相に現れているのだと思われる。
我々の社会が渇愛の連鎖によって愛を見失い、結果的に、世相を映す鏡として、犯罪者の中に、己のエゴに備わった邪悪な側面を垣間見ているだけのように感じられるのだ。
つまり、彼らの行いは、我々一人ひとりの意識のありようと決して無関係ではないということ。
我々が日々の生活で憤怒に身を任せるその行為の一つひとつ、己のエゴを無制限に主張して憚らぬその姿が、決して、彼らの行為と無関係ではないという考え方である。

また、人の心や肉体の患いにおいても、同様の側面があるのではなかろうか。世相に反映された愛と調和の喪失が、個々の精神や肉体に病となって立ち現れているように感じられるのだ。

それ故、病にせよ、犯罪にせよ、その悲劇に立ち会った者は、皆、犠牲者であり、私は、己自身の意識に生み出される邪悪なエゴをこそ、疎ましく感じずにはいられない。
しかしながら、我々の意識に湧き起こるエゴは、決して無くしてしまうことはできまい。
元来、エゴは我々の生命活動に由来するもので、無意識に育まれるそれまでをも統御することはできないからだ。

であるなら、少しでも多くの方々と、こうした認識を共有して、我々一人ひとりの意識に誠の愛を育み、この連鎖によって、総体としてのエゴの力を減じさせるより他に手立てはないのではなかろうか。
病める方々も、犯罪者やその被害者も、我々にとって、見ず知らずの縁なき衆生では決してないからだ。
何事についても明日はわが身。この世のいかなる不幸や悲劇にも、無関係な人間など存在し得ないと私は思う。

No.19<自己犠牲>

一般論として、子供を生む母親の方が偉い。家事をしてもらっているから頭があがらないというのはいかがなものだろうか。

男の仕事は金稼ぎだけではない。家族のためだけに働いているのでもない。社会を支え、ひいては世界を、また、未来を支えているはずなのだ。それはまた、有形、無形に家族へ還元されてもいるはずである。
私が主張したいのは、そういう視点で物事を深く考え、男性的価値観に敬意を示せる女性が少なくなってきているということだ。

一方、こうした男性的価値観を体現できる男たちが少なくなってきているということでもある。男女を問わず、目先の権利を主張し過ぎる輩が実に多い。
これはフェミニズムがもたらした悪しき風潮であるかもしれない。何割かの現代女性においては、是非とも反省していただく必要があるのではなかろうか。もっとも、女性と争うことを避け続けて骨抜きになってしまった我々男性陣にも猛省が必要であるだろう。
身をひくばかりが家庭円満、社会円満の秘訣とばかりはいえないはずだ。家長として主張すべきことは主張し、幅広い視野で状況を踏まえた上、権利の主張がなされるべきだ。

女性が悪いというのではなく、女性的価値観が、男性的価値観を席巻しすぎたことに現状の問題が起因していると推察するのが私の立場だ。
今日、この女性的価値観は、男性の間ですら支配的になってきている。もっとも、これは過去の大戦からの教訓ではあるのだろう。ここはバランスの回復を主張したいところだ。

先日、あるハードワーカーから興味深い話をうかがうことができた。労多くして褒美少ない仕事に対し、部下がストライキを起こしたというのだ。拘束時間が長すぎて、家庭不和を招いていることが主な原因ということのようだ。
現代的視点でみれば、この部下たちの行為は、個々の正当な権利を主張しているだけであり、家庭内で追い詰められた結果故のやむなき所業には違いあるまい。

一方で、仕事に忙殺されることを誇りに思っていらっしゃる御仁も少なくないことだろう。
報奨少なき仕事に忙殺されるのは、自己犠牲の象徴であると信じておられる方たちだ。
私はこうした考え方にこそ、尊さを感じている立場だ。
しかし、それも度を越すのは良くないとも思っている。なぜなら、過労死を礼賛することはできないからだ。

先のストライキ。その根底には、奥方達の見えざる圧力を感じる。彼らが追い詰められた背景には、自己犠牲によって社会に貢献しようとする男たちのあり方を全く解そうとしない価値基準の存在が見え隠れする。
確かに、過去の大戦では、自己犠牲礼賛の日本文化が不必要に多くの犠牲者を生み出した側面があるかもしれない。その反省からか、現代日本人は、未だ自己犠牲の精神を素直に肯定できずにいる。けれども、今日浮き彫りにされた社会のひずみの多くは、それらを全否定しようとする営みによって生み出されたものなのではあるまいか。

人の本質は愛である。そして、男性の本分は自己犠牲であり、女性のそれは献身であると私は思う。自己犠牲も献身も、ともに愛の一側面だ。男女とも、こうした己の本分を見失うとき、同時に愛を見失ってしまうのではなかろうか。

No.18<家長の威厳とは>

家長の威厳を示すとは、どういうことなのだろうか。沢山のお金を持って帰ってきて、家族に贅沢をさせることなのだろうか。
それとも、家の中で何かにつけて威張り散らすことなのだろうか。
頑固親父や、肝っ玉母さんでいることばかりがそうなのではあるまい。
家長とは、一家の中で、誰よりも幅広い視野でものを考え、それを主張できる存在なのだ。それは、お父さんの役目というわけでもなければ、お母さんの役目というわけでもない。家長とは、決してお金をかせいでくるばかりが能なのではない。

今日、リストラの嵐にあい、家庭で苦境に立たされておられる家長も少なくないことだろう。けれども、そうした苦難の中にこそ学ぶべきことは多く、数々の気づきがあるのだと私は思う。そうした気づきによって、これまでの自分のあり方に何かしら思うことも少なくないことであろう。
その気づきを地道に家族へ伝えていくことも、家長の大事な仕事であるはずなのだ。
今は理解してもらえなくとも、地道な努力を積み重ねる生き方を示すことができるならば、必ず道は開けると私は信じている。
どんな形であれ、家長たるもの、家族に逃げる姿をみせてはならない。自殺などもってのほかだ。

そして、時には己の過ちを素直に認める潔さも大切だ。我を通すばかりが威厳を示すことではあるまい。人間である以上、時にはエゴに捉われて間違うもの。そうした謙虚な態度が、家族からの尊敬心を育むのではあるまいか。
また、家長に相応しい存在が不在なら、広く家庭外に意見を求める柔軟さも必要となろう。

No.17<家庭と教育>

近年、離婚が激増している。女性が経済的に自立してきたことと無縁ではあるまい。父親の仕事がお金をかせぐだけならば、必要とされなくなるのも当然かもしれない。
勿論、離婚そのものには、個々の事例により多様な原因があろう。
ドメスティック・バイオレンスの存在などは、止むを得ない理由のようにも思われる。
しかし、以前より、安易に離婚の選択がなされる場面が多くなってきた感が否めない。
同時に、父親視点の不在が、家庭に蔓延し始めている。

社会で活躍する職業婦人の全てがそうではないにせよ、彼女たちの多くは、これまで日本社会の調和を維持してきた自己犠牲を嫌う傾向があり、個々の権利を声高に主張して憚らない。
社会においては、協調と調和を図るため、時に理不尽な要求を強いられる場面がある。全体利益を優先する男性視点でみれば、それもいたしかたのないこととあきらめてしまいがちだ。しかし、女性は平然とそれらを無視できるたくましさにあふれている。
これを悪いこととは思わないが、これまでの日本社会を支えていた調和を乱す一因にもなっていると感じることしばしばだ。

個々の権利を主張するのも良いが、状況をわきまえねば単なるエゴに過ぎなくなる。
子供にとって母親の愛情は、尊い存在だ。しかし、それは時に偏狭で、節度を失えば極めて利己的にもなり得る。それは、こうした男性視点に対する理解不足と無関係ではあるまい。

私が最近みかけたある離婚のケースでは、当該女性の実家において、家庭内に実質的な父親が存在しなかった。母子家庭を指しているのではない。父親視点の存在の有無が問題なのだ。
嫁姑問題、育児問題でなどで不満のある嫁が実家に帰ってきても、それを叱って夫のもとに送り返すことのできる父親がいないのだ。
父親が母親のいいなりで、存在感がまるでない。母親は当然ながら娘視点で同情する。しかし、そこにあるべき父親視点が存在しないのだ。社会の掟を知る父親の価値観が存在せず、抑制を失った母親の利己的な視点のみが家庭を支配している。

核家族化が進む中、父親視点に欠けた家庭においては、子供の利己主義が助長されるのではあるまいか。
そうして我儘に育てられた子供が母になり、その母が、これまた存在感のない父親とともに我儘な娘、息子を育てる。
父親視点の不在が生んだ悪循環なのだ。高度経済成長以来、父親の単身赴任が日常化したことと無縁ではあるまい。しかし、それだけではない。自分の妻や子供としっかり向き合うことのできぬ幼稚な父親が増えていることの証左でもあるのだろう。

いずれにせよ、バランスのとれた父親視点、男性視点の不在が、母親の偏愛によって子供達のエゴを増長させていることは間違いない。父親視点という抑制を失った母親のエゴが子供のエゴを増幅させているのだ。
こうしたエゴの強い子供たちが、やがて親となり、家庭不和を招き、離婚を増やし、父親視点の不在に拍車をかける。家庭内のエゴは、やがて社会全体に蔓延する。
とめどなく増幅されたエゴは悪そのもので、愛とは対極に位置するものだ。それらが社会不安の根幹をなすことだろう。

母子家庭が悪なのではない。そこに調和を重視できる父親視点が存在するか否かが問題なのだ。母子家庭であっても、母親が父親視点を失わなければ子供は立派に育つことだろう。逆に、父親がいても、この父親視点が存在しない家庭ならば、そこで育った子供は社会にでてから苦労するに違いあるまい。
家長の威厳。今では死語になりつつあるこの言葉が、家庭において最も必要だ。