眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて) -37ページ目

No.36<環境問題と企業倫理>

環境問題について、私は決して現状を楽観視しているわけではない。むしろその逆で、極めて切迫した危機感を感じている。
おそらく、このままでは遠からずリセットを迎えるのは必至なのではあるまいか。それはもはや、既定路線といえるのかもしれない。

環境問題の根底には、利益追求型の資本主義が及ぼす悪影響があるといえるだろう。
現在の資本主義のあり方に行き詰まりを感じておられる方は決して少なくない。それはまた、営利追求の姿勢に対する抵抗感を感じる原因ともなるだろう。

しかし、資本主義にせよ、社会主義にせよ、その思想や体制が全て間違っているわけではないと私は思う。
ただ、どちらの思想も、極端に走れば、そこに弊害が生じるというだけのことだ。例えば、資本主義は競争原理礼賛、エゴ全肯定の象徴となり得る。他方、社会主義は、エゴ全否定の象徴となり得てしまう。ここに罠があるのだ。

私は、エゴを否定しない立場だ。エゴとの共存こそ肝要だと考えるからだ。
即ち、利他と利己の程よき共存だ。
これはまた、企業のありように指針をもたらすと考えられよう。
企業は、自社利益を追求する傍ら、節度をもって、利他的でなければなるまい。そして、このバランスを保ち得るなら、前途は明るいことだろう。
なぜなら、お金の流れとは、即ち愛情の流れでもあるからだ。
自然保護に支出する優良企業も決して少なくはない。こうした企業にこそ、将来の繁栄が確約されているのだと私は思う。
目先の利益ばかりを追求して、他者を省みない企業は、例え一時的な繁栄を築きあげることが叶ったとしても、遠からず衰退することだろう。

こうした理論は、カーネギー氏の成功哲学に見ることができる。
それは、お金とは、愛の一側面に他ならないという認識だ。
今日の経済を停滞せしめている原因は、資本主義の行き詰まりというだけでなく、過剰な利己の追求により、愛を省みなかったための惨状とみるべきだ。
愛の冷え込みが、経済の冷え込みとなって現れているだけなのではあるまいか。
社会や、企業が、愛と正義を復権させ得るなら、我々は悠久の繁栄を築き上げることができるだろう。
私の主張は必ずや証明されると信じている。

No.35<地球環境問題>

地球温暖化の危機が叫ばれている。我々が、化石燃料を無尽蔵に使っていることが原因なのだそうだ。

(地球温暖化については、後述する。温暖化の事実は果たして真実なのか、常識を問い直す必要があるかもしれない。)
この二酸化炭素の排出、地球という惑星がこれまで経験してきた環境の激変を省みれば、実はささいな問題かもしれない。地球を守ろうというスローガンもみかけるが、ナンセンスだと私は思っている。
なぜなら、地球様が温暖化に困るわけではないからだ。結局、人間視点で困るだけのお話。
太古の自然主義を礼賛する意見もあるが、これこそナンセンスの極みだろう。
今更、今日の文明や文化を否定して、これらを捨て去ることはできないからだ。
現状の全否定によって問題の解決を図るのではなく、個々のエゴを統べる営みによって問題解決を図りたいところだ。

我々が環境を汚すとしても、地球には浄化作用がある。要は、極端な浄化作用を引き起こさぬようにしなければならないということだ。極端な浄化作用には、多大な犠牲が必要とされるだろうからだ。けれども、それで人類が滅亡してしまうわけでもあるまい。最悪、今日の文明が一つのリセットを迎えるのみであろう。

ひょっとすると、化石燃料や原子力に頼らずとも、エネルギーを獲得する技術は存在しているのかもしれない。しかしながら、この世には既存の資源やエネルギーに関係した利権に妄執するエゴが根強く存在する。仮にそうした新技術の開発が叶ったとしても、この働きにより、転換が容易には進むまい。
他ならぬエゴが、こうしたパラダイム・シフトを阻むのだ。
だからこそ、そういう体質を変えていかなければならないのだと私は思う。
即ち、個々の存在が己のエゴと向き合うことだ。大なる存在の体質を変える力こそ、個々の存在の変容であると信じるからだ。人の神性を信じるが故、希望はあると私は思う。

No.34<人と法>

私は小学校以来、常々校則なるものに疑問を抱いてきた。それは、本来、生徒が調和を保って快適に学校生活を送るためにあるはずの校則によって、不自然に縛り付けられ、不快を感じることが多かったためだ。

最も不可解だったのは、近隣の学校に多かった、頭髪を丸坊主に刈るよう強制するものであった。本来、頭髪には、打撲時に外力を吸収、拡散し、頭部を守る働きがある。坊主であっては、それが機能しないのだ。
しかし、そうした人体の防護作用より、見た目の統一感が優先された格好で、こうした不愉快な校則がまかり通っていたように思われる。

また、同様な不自然さを、宗教の戒律に見出すことができるのではなかろうか。世界には多様な宗教があり、それらは皆、その信者によって形成された団体を訓示、統制するために戒律を有している。信者にとって、戒律は命がけで遵守すべきものに違いないのだが、異宗教の側からみれば、その多くが理不尽の極みで、かつ、こっけいである場合も多いと感ずる。

同様に、我々が絶対遵守を強制される法律も、異文化圏の視点でみれば、それら全てが、必ずしも妥当であるとは言い難い。私自身は、法的規範よりも、己の良心や、理性による規範を優先させる立場だ。なぜなら、こうした立場でいなければ、我々は国の犯す過ちに気づいたり、それに対抗したりすることもかなわないと考えるからだ。そして、このような規範は、決して自分勝手な価値判断とばかりはいえないはずである。

法を皆が守ることで法治国家たり得るのだとしても、そのお国自体が信用を失いつつある昨今、盲目的に法に支配されるのは愚民の証だと私は思う。
加えていえば、日本国憲法は、終戦時の日本国の状況に鑑みて、ある明白な意図をもって、米国主導で作られた規範であり、ある意味、宗教の戒律と大差ないように思われる。

一方、刻々と変化する状況に即応して、法を改変、作成すべき立法府に対する我々の不信感は、今や絶大だ。三権分立などとのたまっても、司法の要であるはずの最高裁の判断にしたところで、お上寄り、日の丸寄りであるケースをみかけることもしばしばであるという憂うべき現実も無視できない。

こうした状況下で、法の絶対遵守を唱えることに、果たしてどれほどの意味があるのか、はなはだ疑問ではある。無論、これは、法を守る必要がないなどという極論を訴えるものでは決してない。何事につけ、己の理性や良心を省みることなく、盲従する姿勢にこそ、強い疑問を抱かずにはおれないという立場だ。

確かに、己の良心や理性を絶対化してしまえば、それは、法を絶対視するのと同様な弊害を生じるであろう。また、我々は、日本国民である以上、定められた法に従う義務がある。
しかし、その「法」の是非をめぐっては、その判断を、最高裁や、何かの裁量のみに委ねてしまっていてはならないというのが私の主張だ。

やはり、個々の存在が、常に、それらのよき監視者であらねばならぬということだ。そして、そのためには、常に己が意識を研ぎ澄ませておく必要があるということでもある。
それなくしては、いくら良心の訴えなどと叫んだところで、勝手な自己主張であるとのそしりを免れることはできないだろうからだ。
己のエゴに捉われぬ、誠の愛に根ざした判断であることが重要なのだ。

故に、例え法といえども、何かや誰かのエゴに毒された規範であるのなら、そこに価値を見出すことはできまい。真実の愛に基づいた法にこそ、正義が宿るのだ。もし、個々の存在が、十分に己が神性を顕現できれば、世界の法はたった一つ、愛の法によってのみ、導かれることになろう。そして、その時にこそ、世界は、真に一つとなり得るのだと私は信じる。

No.33<聖戦の有無>

[宗教の世界では、時として争いを容認する場合がある。それらは聖戦と呼ばれ、これに命を捧げる行為は尊ばれる。けれども、日本人である我々の多くが、そうした考え方には懐疑的だ。]

古代インドの聖典、バガヴァッド・ギーターにおいては、神の化身クリシュナが、弓の名手アルジュナに向かって、聖戦を戦う必要を説く場面がある。
けれども、戦争それ自体は、やはりエゴの相克に違いないと私は思う。
一方で、そのエゴがより統御されている側の主張にこそ正義が宿るのではなかろうか。
その意味で、聖戦はあるといえるのかも知れない。

しかしながら、現代において聖戦と呼べる戦争は、成立し難いと思われる。それほど対象の構造が単純ではないからだ。
また、殺傷兵器の進歩に伴い、人の尊厳を省みない虐殺が横行している。どのように言い訳したところで、相手を殺める行為は、相手に対する全否定の表れだ。
今日、聖戦たりえるのは、やはり、個々の存在の内面における戦いや、組織内部での血を流さぬ争いに限定されてくるのではなかろうか。また、そうであって欲しいものだと私は祈る。
でなければ、この次に我々が経験するであろう聖戦は、極めて破滅的な様相を呈すると予想されるからだ。

他方、武力行使を余儀なくされた局面で正義が宿るのは、誠の愛に根ざした法によって導かれた側であろう。法的規律を持たぬ、あるいは守れぬ側には、愛も正義も存立し難い。軍隊がこうした法規を見失えば、単なる蛮族と化してしまう。

戦争や殺人それ自体を絶対悪とは定め難い。自殺もまた然り。自衛のためや、何かや誰かを守るためには、剣によって立たねばならぬ、また、命を賭さねばならぬ場合もあるからだ。しかし、そこに必要とされるのは、真実の愛に導かれた法であり、これなくして正義は宿り得まい。

現在、聖戦を高らかに謳うテロリストたちには全く正義を感じない。それは、彼らの営みが、誠の愛を著しく欠き、憎悪に根ざした行為であるからに他ならない。憎悪と復讐心によって立つならば、それは暴力に相違なく、そこにいかなる正義も宿ることはないだろう。
彼らがどのような神を信奉しているにせよ、その神から恩寵を賜ることなど、ありはしないと私は思う。

No.32<宗教の意義>

[輪廻転生や神を語ると、即、宗教であるとの指摘を受けて忌避されがちだ。だが、私の主張は本当に宗教なのだろうか。]

宗教が宗教として存続するためには、教義が必要だ。しかし、この教義は、所詮、教祖自身が著したものではない場合が多い。後世の人間によって歪められないものとどうしていえようか。

私の愚見が宗教であるか否かについて論じる場合、まず、宗教という言葉の表す定義が問題になってこよう。宗教の定義は宗教学者の数だけあるといわれるが、私の解釈は以下のごとくである。

まず、宗教には、信仰の対象となる神があり、それに指南された生き方の指針というべき教義がある。そして、それを信奉する信者がおり、その信者によって形成、運営される団体がある。さらに、その団体を訓示、統制するための戒律があり、これらを総じて私は宗教と呼んでいる。
この意味では、あらゆる教祖の主張は、それだけでは宗教とはいえず、哲学に近いということができるだろう。ただ、哲学との決定的な違いは、そこに神からの啓示があるか否かに過ぎまい。しかし、この啓示も、哲学上の悟りや気づきを啓示と呼べば、それとの間に厳密な境界を設けるのは、困難であるかもしれない。

また、本来、ユダヤ教とキリスト教、あるいは、他の諸宗教を全く独立した存在であると理解するのはナンセンスであろう。
なぜなら、いかなる宗教の勃興にも、必ずその時代に主流であった宗教の影響があり、多くは、人の霊的進化における、既存宗教の不適切部分に対する反省、ないしはアンチ・テーゼとして誕生したと考えられるからだ。
そして、宗教が抱えるこの「不適切部分」こそ、後世の信者によってもたらされた教義の曲解、ないしは歪曲であろうと思われる。

こうした観点に立って、世界の諸宗教を俯瞰すれば、多くは、その教えの精髄を、古代インドのヴェーダ聖典を排出した文化の源泉に辿ることができるのではないかと私は考えている。
また、横のつながりを指摘すれば、イエスには、その経歴に空白の十数年があり、一説には、その間をインドで修行したといわれている。実際、キリスト教には、ユダヤ教と比較して、東洋的な愛の概念を随所に見出すことができる。また、中世の宗教改革以前には、キリスト教も、東洋的な転生輪廻を認める思想であった可能性が示唆されてもいる。
結局、いかなる宗教も、全く独立した存在であるとはいい難いのだ。

一方、啓示に関する科学的根拠を疑問視することで、宗教教義の価値に懐疑的な立場をとる方々がいらっしゃる。しかしながら、そもそも現代科学は、こうした現象自体、科学と認めておらず、科学として吟味されることすらほとんどないのだ。それはまた、科学的根拠がないということを表しているわけではないように思える。つまり、こうした事項が実在しないのは自明の理で、探求する意義など最初からないという科学者の不遜な態度によって、未だ、科学たりえていないだけだと私は解釈している。結局、唯物論に固執した現代科学が、その狭量さを露呈しているが故、未だ科学的根拠を示せずにいるだけなのではなかろうか。

超常現象を真面目に科学しようと志す方々の間では、アカシック・レコードと呼ばれる英知の源泉が、精神世界に仮想されている。それは、ユングの説いた集合無意識に相当する側面をもっており、かつ、神に通じているといわれる。
こうした視点によれば、啓示とは、瞑想や、何かのきっかけによって、それとの間に、深い関わりを持つことで得られるものだと説明され得る。
とすれば、異なる時代や地域の、異なる教祖による教えに、それぞれ共通性があっても、全く不思議なことではなく、むしろ、真理であればあるほど、その教義は、既存宗教のつぎはぎと化すとも考えられるのだ。

興味深い事実として、拝火教や、仏教、儒教、ジャイナ教が、その教祖の存在時期においては、紀元前5~6世紀に集中しているということが挙げられよう。また、ソクラテスも同時代であることを付記しておく。これらの教えは、その原初においては極めて酷似しており、おそらく、時代とともに世相と既存宗教が世界的に荒廃し、真理の復権が切望されたが故の勃興であったと解釈され得る。現代の世相と似通った状況を抱えていたのかもしれない。こうした同時性は、現代のように発達したメディアの存在を抜きにして考えれば、奇異なことであろうと思われる。我々の意識の奥底に存在する、何らかの結びつきを感じさせずにはおかない事実ではないだろうか。

もとより、宗教も哲学も、ともに人々の不毛な争いを収め、その生き方を支える礎でなければならないはずだ。その意味では、時代の変遷を経た結果、現存する宗教の多くが、本来の目的を見失ってしまったということができるだろう。
宗教は、宗教としての体を成したその瞬間から、既にそこには腐敗と堕落が芽生えているということができる。そして、いかなる既存宗教も、この弊害と無縁でいることはできまい。なぜなら、宗教は、信者を抱えたその瞬間から、それらのエゴによって味付けされるものだからだ。

こうしたわけで、私は本書で宗教を行うつもりは全くない。私自身は、神を語る都合上、その解釈や、観念を理解するための方便としてのみ宗教に存在意義を認めている。それは、あくまで手段であり、目的だとは考えていない。
即ち、最終的な理想形は、個々の意識が、宗教によることなく神を体感し、これを顕現させることだと考えているからだ。
また、それは決して夢物語などではなく、過去の日本においては、それを実現させていた時代があったとも思っている。歴史学は未だ謎を多く残してはいるが、縄文時代には、犯罪の痕跡がほぼ皆無だったという。これは極めて示唆的だ。
私の目指す理想社会において、宗教にはそれほど重きをおいていないというのが私の立場だ。

ただ、このような考え方は、既存宗教を全否定するものでは決してない。私自身は、宗教には、人の霊的進化にとって、有害なものとそうでないものが存在していると考えている。そして、それを判断する場合には、常識を鑑み、それらが信者の人生を豊かにしているのかどうかを指標としている。同時に、教祖や教団が排他的であるか否か、あるいは営利主義であるか否かもわかりやすい指標だと思っている。なぜなら、それらは教祖や教団の体質、即ち、エゴの強さや節度を示す重要な尺度だと考えられるからだ。己の信奉する宗教がどちらの側に属するのか、個々の存在があらためて熟考することを強く推奨したい。

No.31<転生輪廻と因果応報>-殺すべからずの理由-

転生輪廻を否定はしないものの、認めるわけでもないという立場は多い。
では、輪廻転生を認めることなく、神の御前における平等をどのように説明できるのだろうか。巷には、不平等があふれかえっているように見受けられる。

転生輪廻の思想は、こうした疑問に鮮やかな解答を用意し得る。そして、私は未だ、それを超える真理を知らない。即ち、一見不平等に見える条件の多くが、過去世における己の思いと行いの結実であるということだ。
良きにつけ、悪しきにつけ、人生に生じる逃れられない運命の数々は、自らの手によってもたらされているものであるという認識。人生の彩りには、常に、己自身がその責任を負っているということだ。これぞ、因果応報の理である。

従って、誰かや何かを呪えば、その呪いは、必ず己自身が受け取ることになろう。
「人を呪わば穴二つ」とは、相手と自分の墓穴を意味するものだからだ。
何があっても、決して呪ってはなるまい。因果応報の事実を実感できれば、己の発する思いや行いに敏感とならざるを得ない。

一方、罪と罰についてはどうだろうか。これもまた、輪廻思想を用いることなくそれを語ることはできないのではなかろうか。
今生のみにては、因果応報は完遂されないように見受けられるからだ。

小さな罪ならば、それらは今生で速やかに差し戻されるが、その罪が大きくなればなるほど、返還には悠久の時をまたぐといわれる。
今生で経験する数奇な運命の数々は、遠い過去世の営みによってもたらされたものなのかも知れない。やはり、因果応報のあるところ、輪廻転生があるのだと私は思う。

ただ、ここで特筆すべきは、人生が、過去世の償いや贖いのためだけにあるのでは決してないということだ。それは、個々の意識が相応な学びを得るためにあるのであって、決して贖罪としてのみ存在しているわけではあるまい。
場合によっては、己の霊的進化のため、自ら望んで悪条件に挑む場合もあるという。
そうした多様な要素の結実が、我々の抱える運命なのだと私は解釈している。

過去世の思いと行いに導かれた運命という名の大雑把な筋書きの中に、現世の自由意志に基づいた進化の歩みがあるのだろう。
決して今生が全てなのではないということだ。
そして、この自由意志によってもたらされるのが、未来であり、来世なのだということ。

また一方、霊的進化の歩みの果てには、解脱と呼ばれる神との合一があり、そこに達すれば、輪廻のくびきから解き放たれて至福に至るという。

結局、我々は、神から出でて、神のもとに帰るよう定められた存在なのだ。人生や輪廻の営みは、己が神性を復権させる営みに他ならないということができよう。

No.30<肉食と菜食>

転生輪廻の目的とは、個々の意識の霊的進化であろう。
そして、この霊的進化には、菜食主義が欠かせないと、頑強に信じておられる方々がいらっしゃる。

私は、こうした考え方には、すこぶる懐疑的だ。
なぜなら、そのような考え方の根底には、肉食を営む他の生物達の存在を否定しかねない結論を導いてしまう可能性があるからだ。

以前にも説いたが、霊的進化の営みを歩んでいるのは、人間ばかりではない。ただ、人間は、食物連鎖という名の自己犠牲の営みにおいて、その頂点に立つことを許された存在であるというに過ぎない。
その責任は重大だ。それ故、人だけが、霊的進化を自らの手で促し得る存在でもあるのだろう。
故に、肉食動物が存在する以上、肉食それ自体を、好ましからざる習慣と断定してしまうことはできないはずだ。

確かに、我々の意識と物質との間には、密接な関係があり、摂食する対象の持つ素因の影響を、何らかの形で受けることになる可能性は否定できまい。
それが、安定した精神生活を営む上で、好ましくない影響を与え得るというのは、その通りなのだろう。
つまり、菜食こそが、人のエゴを正しく導く助けになるという考え方だ。

けれども、我々の本質は、肉体にはないことをこれまで説いてきた。我々は、肉体から受ける様々な誘惑に打ち克つよう余儀なくされた存在であるはずなのだ。
であるなら、肉食に伴う弊害は、我々に対する挑戦であり、こうした足枷を克服してこそ、そこに霊的進化があるとはいえまいか。故に、肉食全否定の菜食主義とは、偏狭なイデオロギーの一つであると私は考える。

No.29<罪と罰>

[皆等しく神の化身であるはずの我々が、時に犯す罪の数々。我々は、それをいかように捉えるべきなのだろうか。]

近年、凶悪犯罪者における、ある共通性の存在が、現代医学によって指摘されるようになってきた。
それは、彼らの多くが、脳内に何らかの器質的な異常を抱えているという事実だ。いわゆる、犯罪脳の存在である。
これは罪と罰について考える上で、とても示唆的だ。同時に、人の根源を考える上でも重要なヒントを得ることができる。
こうした器質的異常を抱えた方々の全てが犯罪者になるわけではないからだ。

一方で、そうした異常が、かえって社会的な大成功を収める原動力になっていたケースが存在する。アインシュタインなどは、言語野に先天的な異常を抱えていたという話だ。
脳の異常が意味するもの。
それは、エゴの制御において、先天的に困難な肉体があるということが挙げられよう。
通常よりも、著しくエゴを育て易いと考えられる。
そのため、育まれた強大なエゴに打ち克つことが叶うなら、通常では望めない大成功を収めることが期待できるのかもしれない。他方、それに敗れてしまえば、邪悪な存在に成り下がってしまうのだろう。

転生輪廻の実在を信じておられる方には、今更、自分がそうした犯罪者に落ちぶれることは決してないと信じておられる御仁も少なくないことだろう。
だが、果たしてそう言い切れるのだろうか。

私は、霊的進化の過程では、こうした犯罪脳を個々の段階で経験するのではないかと考えている。つまり、そうした肉体の素因と、転生意識の主体がもつ素因との葛藤を自己表現するためだ。カルマが勝つのか、肉体の素因が勝つのかの大勝負である。
霊的進化がどの段階であれ、それに相応しい肉体を得るはずだ。誕生に際し、エゴを扱うのに容易い肉体ばかりとは考えにくい。御しやすい肉体ばかりでは、進化は望めまい。

実は、この辺りの事情を、現代に蘇った神話が解り易く伝えようとしている。
映画スターウォーズの新シリーズだ。
主人公アナキン・スカイウォーカーは、救世主として期待されていた存在であるにもかかわらず、己のエゴに敗れて、堕天使たる悪の化身、ダース・ベーダーに身を窶す。
彼は、この新シリーズと時系列的に後続する旧三部作においては、改心した後、見事、己の悪に打ち克って、諸悪の根源である皇帝を倒すことになっている。

こうした物語が意味するもの。それは、犯罪が決して自分と無縁ではないということである。どれほど進化した魂も、肉体の持つ素因に敗れ去る可能性を秘めているのだ。
我々が罪を犯すことなく、何とかやってこられているのは、決して徳の高さを表しているばかりではないということだ。
人生が、神性と悪との戦いを示す自己表現である以上、あらゆる発達段階に罠があるのだ。
誰しも犯罪者になり得るということではなかろうか。
やはり、「私」、「貴方」といった区別は無意味であろう。悲劇の存在するところ、加害者、被害者共に、我々自身の姿なのだと私は思う。

しかし、こうした考え方は、決して死刑制度を否定するものではない。私はこの制度、あってもなくても、どちらでも良いと思っている立場だ。それは、犯罪者にかかわらず、あらゆる存在が、犯した罪に相応な報いから逃れることはできないと思っているからだ。
いわゆる、因果応報の思想である。
けれども、こうした因果律を解さぬ輩には、解り易い形で罰を与え、罪を認識していただくことも無意味ではないと考えている。ここに刑罰の存在意義があろう。

我々は、表象の世界にあっては、目には見えぬこの世の法則性を実感することが難しい。
けれども、医者をしていると、世の中には見えざる法則が存在していることを実感できる瞬間が度々ある。
それは、救急外来におけるシンクロニシティー、共時性の存在だ。

例えば、肩関節脱臼や手関節の骨折。虫垂炎や尿路結石症。また肘関節における特殊な骨折。これらは、一年を通じて均等に症例を経験するわけではない。常識的な発生率をはるかに超えて、特定の時期に集中するのだ。
即ち、個々の症例には相互に何の関わりもないのに、その発生が時を同じくして「続く」のだ。

こうした経験により、この世には、何かしら摩訶不思議な法則が横たわっていることを実感できる御仁も多い。目に見えているばかりが全てではないと直覚できるのだ。

因果応報も同様、実生活で実感できる人間にとっては真理なのである。
また、常識を超えた回復をみせる患者の存在や、その逆の存在を見かけることもしばしばだ。
私が、人の本質は見た目の生命現象を超えていると信じられるのは、まさにこうした理由による。
詭弁かもしれないが、一つの理屈には違いあるまい。

参考図書 アン・モア/デビッド・ジェセル「犯罪に向かう脳」

No.28<神意識の所在>

[瞑想によって体感できる神意識。それは我々のどこに存在するのだろうか。]

意識を形成している素因には二つ考えられる。一つは、前世から持ち越されている生き方の習慣。即ちカルマである。もう一つは、肉体が、先祖代々受け継いでいる思考や嗜好の傾向である。
この二つが融合し、三つ目の無垢な素因を獲得した状態が誕生であろう。新たな人生の営みは、これら三つの素因によって育まれると考えられる。

神性は、これら三つの素因で構成された意識の奥深くに在って、表層の意識からはなかなかお目にかかれない。
それは、愛の自己表現に呼応して現れ出でるものなのではなかろうか。その刹那、我々は神性を認識できるのだと私は思う。

一方、人の意識と肉体は互いに拘束しあっているものでもある。なぜなら、精神活動は、薬で制御され得るものだからだ。逆に、精神で肉体を統御することもまた可能であるという証を目撃することしばしばだ。
故に、意識は物質との間に何かしら結びつきがあると考えられる。即ち、この世のあらゆる物質に、意識が宿っていると考えられるのだ。
こう考えれば、神意識の存在を脳の機能局在によって説明することは難しいのではなかろうか。神は遍在ということなのかもしれない。

「神とは、その顕現を座して待つものにあらず。個々の存在が、自ら顕すものと知るべし。」

No.27<瞑想の罠>

理性の働きに限界を感じ、通常の生活のみにては、生命現象に根ざすエゴの抑制は困難であるとの指摘がある。
これは、確かな事実なのかもしれない。私は、瞑想が鍵となるのではないかと思っている。

我々の意識の内側には、等しく神性が宿ることをこれまで説いてきた。日常生活で、この神性を実感することは難しい。けれども、ある特殊な方法を用いることで、それは不可能ではなくなるという。
我々が己の本質たる神を見えにくくさせているものの正体は、生命活動に他ならない。
なぜなら、生命の本質はエゴであり、神とは対極に位置するものだからだ。
我々の心が発する様々な印象は、湖面にざわつくさざ波のようなものだ。
よって、この生命現象を極限まで低減させることによって、心のざわめきに蓋をしてしまえば、意識の奥底にある神性を体感できるのだそうだ。
この行為が、瞑想と呼ばれる方法だ。ヨーガや、密教では、こうした方法が体系化されているという。

しかし、実はここにも罠がある。確かに、瞑想に没入すれば、安らぎを得たり、閃きを得たりすることができよう。しかし、それを生きる目的と勘違いしてはなるまい。
瞑想を目的としてしまうと、現世に生きる目的を見失ってしまうことになりはしないだろうか。あくまで、我々は、日常で神性を自己実現するよう定められた存在なのだと私は思う。

また、瞑想それ自体の奥儀は、それほど難解ではないという。要は心のざわめきを抑えれば良いので、簡単な念仏や、自分の好きな単語を繰り返すだけでも良いのだそうだ。
私がかつて師事したある人物は、「ありがとうございます」を用いておいでだった。
何でも良いのだろう。極端な話、「コカ・コーラ」と唱えることで、深い瞑想に没入できた例すら耳にすることがあるくらいだ。
決して間口の狭い領域ではないのかもしれない。

一方、瞑想について、真の理想形は、禅寺にこもったり、滝行に励んでそれを感得するものではないと私は考えている。
おそらく、そのように特殊な舞台を設定せずとも、ごくありふれた方法があるはずだ。
それは、呼吸の様式や、何気ない日常の挨拶、あるいは儀式に含むことができるように感じている。また、そうでなければならないと私は思う。
というのも、特殊な修行によらなければ神性を自己実現できないという主張は、特定の宗教に入信しなければ救われないと折伏するのと大差ないように思われるからだ。

私が尊敬する人物は、究極の瞑想は、祈りであると説かれている。
私もこれに同意する。