眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて) -40ページ目
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No.6<エゴとは>

エゴとは、簡単にいえば、生命活動の原動力だろう。自己保存、自己保身、自己増殖。そこにあるのは、常に自己と自我のみ。他者を省みない利己の総称。
扱いを間違ってはいけないもの。決して主導権をゆずってはいけないもの。
仏教哲学でいうところの渇愛に近いものであろうか。

私はエゴを否定している立場ではない。子孫繁栄、文明、文化の進歩発展を促す力はエゴに由来すると考えているからだ。
我々の意識に湧き起こる印象それ自体は、神性な場合もあれば、邪悪な場合もあろう。そこに成される判断も、実際の行為も、また同様なのではなかろうか。それ故、冷徹なる監視者たる理性の働きが重要になる。
エゴと戯れる余裕と、それをよく従える強固な意志と節度が必要だ。同時に、他人のエゴを受け容れてやる度量も必要になってこよう。それなくして調和を実現することはできないからだ。

一方、エゴの統御、愛の顕現はそう簡単には実現できそうにない。
なかなかエゴの統御を実践できない理由。
これは危機感の問題であろう。
今日の惨状を生み出した根本原因に対する自覚のなさが招いた結果なのではなかろうか。
それ故、まさに今、愛を声高に叫ぶことに意義があると私は考えている。今だからこそ、皆真剣に己のエゴと向き合うことができるのではなかろうか。
そういう意味で、我々は恵まれた時代に生まれ合わせたといえるのかもしれない。
霊的進化においてはチャンスであるとも考えられるからだ。
世の中が平和であれば、このようなテーマを真剣には考えないものなのではなかろうか。

No.5<愛とは>

[悪に対抗し得る唯一の武器。いつの時代も、それは愛に他なるまい。]

私たちはそれぞれ個性なるものを持ち、一見して多様な姿でこの世に存在しているようにみえる。
けれども、本当は、もともとたった一つの存在である神が、己の素性を忘れて現世に現れているだけのものであるという。
輪廻の多様な側面を示しながら、相手に自分自身の姿を見出す行為、すなわち神の姿を見出そうとして生きるべき存在らしい。

ならば、個々の存在が共存するためには、互いの神性を認め合って生きるしかない。
つまりは、「私」が、「私」であろうとするエゴをすら、超えてしまわなければならない。
我々が、アメリカやテロ組織の悪行に憂え、怒りを露にするとしても、それは彼らに対してであってはならない。彼らは単なる行為者であり、表現者に過ぎず、真に憎むべきは己自身に内在するエゴの心にあるということ。
個々の存在が有するエゴが、総体として表現されたものが、世界のありように過ぎないということ。
それ故、平和を求めるならば、まず、己が心のうちに安寧を築く必要があるということ。
常に己が意識に沸き起こるエゴの冷徹な監視者たれということ。
この世で起こるあらゆる事象に対して、我々一人ひとりが、皆等しく責任を負っているということ。
世界を変容させるのは誰か特別な救世主の力によるものなどではなく、われわれ個々の存在が有する愛の力、エゴを無力化する神の力なのだということ。

かつて、愛は大切心と呼ばれた。相手を大切に思う心。
けれども、相手の存在によって自分が幸せになろうと欲するならば、それはエゴとなる。
愛とは、無償であってこそ愛なのだ。男女の恋愛は、恋心が消えた際に残った思いが愛なのだ。
故に、恋心多くして愛の少ない結婚は、ほどなく破綻してしまうことだろう。
恋はまぼろしであり、熱病であり、遠からず冷めてしまうものだからだ。
愛を取り違えると真実は見えなくなってくる。

また、怒りもエゴの一側面である。怒りの源には、最初に期待がある。そして、己の期待した形に何かがそぐわなければ、そこに怒りが生じる。
けれども、己の期待を相手に押し付けることもエゴなのだ。故に、怒りもエゴであるということができる。

現世においては、おおよそ、我々が発した思いや行いは、良きにつけ、悪しきにつけ、我々自身にかえってくるという実感が私にはある。
思いと行いを正し、日々の生活で愛を実践してこそ、生命の本質たるエゴを抑制せしめることができるのではなかろうか。
憎悪の念よりは愛をこそ受け取っていたいものだと願わずにはいられない。

N0.4<悪とは>

[エゴのネガティブな側面を、悪の正体に照準を合わせて、考察してみる。]

辞典をひも解くと、「善の反対」、「正しくない」、「よくない」、「醜い」、「不快な」、「不吉な」、「粗末な」、「苦しい」、「たちの良くない」、「好ましくない」と並ぶ。日常的な悪といえば「殺人」、「自殺」、「戦争」であろうか。

「この世には相対的な立場の違いから悪のごとき虚像を相手にみるだけで、絶対悪は存在しない」といわれることがある。
しかしながら、生身の感覚では「これぞ悪」と感じずにはいられぬ凶悪事件を目の当たりすることしばしばである。
よくよくみれば、先の三つの悪、抑制を失って解き放たれたエゴの形であるとわかる。生命の本質であるエゴ。
では、生きること自体、悪なのかということにもなりかねない。

癌は悪性新生物とよばれる。実は健常者の体にも、生まれては消される、を繰り返している。一説には、このおかげで免疫機能が保たれているのだそうだ。それは、宿主の体を死に至らしめるまで己の自己主張をやめないエゴの塊で、ある意味、もっとも生命の本質に忠実な存在だ。癌にしてみれば「生きる」を無制限に自己主張しているだけ。けれども宿主にとっては「悪」以外の何者でもない。
それでも、人体にとっては必要不可欠なカタキ役なのかもしれない。

では、悪のもつ「好ましくない」の意。何にとって好ましくないのだろう。
結論からいえば、人の生きるべき道、己のエゴを制しようとする努力にとって好ましくないといえるのではなかろうか。
殺人、自殺、戦争、いずれも、この人の努力に対する敗北を意味している。
エゴと向き合う努力。これぞ神の行為。人の本質は神。
となれば、人間とは神と悪が同居する自己矛盾を抱え続け、戦い続ける宿命を背負った存在であるといえるのかもしれない。ならば、生きるというコトは悪ではなく、神と悪との戦いを示す自己表現とみるべきではないだろうか。
この世の存在意義もまた然り。我々神の意志を自己表現するための舞台にすぎない。とすれば、「好ましくない」存在ではあっても、なくなると困る存在でもあるのが悪。なぜなら無いとドラマが成り立たなくなってしまうからだ。

悪。それは抑制を失ったエゴの形。決して無くなることのない存在。
無くすことはできないと解っていながら、無くそうと挑まなければならない存在。
ドラマに欠かせぬカタキ役。

No.3<生と死>-死すべからずの理由-

個人レベルでのリセット。それは死である。だが、それをジ・エンドと解釈なさっている方も大勢おられることだろう。
私自身は、死とはジ・エンドでなく、リセットだと考えている。
つまり、その根底には転生輪廻の思想があるが、私はそれを信じている。
では、輪廻とはどういうものなのだろうか。

生まれ変わりであるというならば、生まれ変わる主体とは、一体何なのだろう。
私は、こうした輪廻を行う主体こそ、人の本質なのではないかと考えている。我々の意識の中で、どれほど肉体を移り変えても変わらぬ存在。その最も尊い部分。

では、個々の意識は来世に何を持ち越すことができるのだろうか。
実はこの問題,転生輪廻の本質にせまる質問なので、軽々しく答えること自体、憚られる。けれども、あえてその禁忌を犯してみるとしよう。

来世に持ち越せるもの、そこに現世的な財産など問題外だ。そのかわりになるものすら存在すまい。
どれほど現世で富を蓄えようと、来世にそれを持ち越すことなどできないという立場だ。

では、教訓や悟りなのだろうか。
特殊な例を除いて、それらも誕生とともに全てを忘却しているのが現実なのではなかろうか。
ならば、一体何が残るのか。あるいはそれ以前に、何が来世を決定づけるのか。

私は、現世で表現した思いや行いによって育まれた「果実」が、来世にもたらされる運命であると考えている。
その果実が美味か否かは味わうその方次第。けれども味の責任は常に当人が負っている。
そして、個々の意識が来世に持ち越すもの。生きるということは、思いを正し、行いを清くしようと考えるだけでなく、それを表現し続ける習慣=カルマをその本質に刻み付けることだと信じている。
魂である人の本質に刻み込まれた習慣だけが、良くも悪くも、われわれが来世に持ち越せる唯一絶対の財産なのではあるまいか。
それ故、あるとき教訓や悟りを得ればそれでおしまいといった類のものではあるまい。
個々の存在が、限られた人生で、粛々とこれを自己表現してこそ、希望はかなうものなのだと私は信じている。

人生に限らず、どこでリセットしようが、結局そこにはやり直しが待っているだけであり、最終的に同じ問題と直面せざるを得ない。
同じことになってしまうなら、逃げずに立ち向かって問題を解決してしまった方が良いはずだ。その意味で、転生輪廻の思想は決して自殺を容認するものではないということができるだろう。
一方、故人の足跡に学び、これを次世代に伝えていくこともまた一つ、輪廻の別な側面であるといえよう。

No.2<生命の本質>

我々人間は、肉体を持った瞬間から自己のDNAを残すことを最優先させるという特質を帯びる。生命の本質はエゴなのだ。
ところが、エゴを優先させると、他の個体と共存不能に陥り、自滅するというジレンマを抱えている。
よって、肉体に宿った精神は、自我の抑制を自らに課す宿命にある。
人間は、他の動植物に比較し、この高次機能が発達しているが故に、抱えた矛盾も大きい存在だ。

エゴの抑制は、対象が自分自身であるうちは、まだ制御可能(それでも困難)なのだが、家族、国家、宗教へと所属する団体が大きくなればなる程、もはや制御は不能になる。
それは、個々の存在が、所属する集団のエゴを優先させてしまうからだ。
エゴの対立、その最大規模が戦争だ。
争いを収めるには、個々の集団が持つエゴを極限まで低減させるしかない。
帰属する集団のエゴを治めるには、より広い視野が必要になる。
例えば、国の利益を優先させるか、人類の利益を優先させるのかといった選択だ。
結局、より広い視野で選択するためには、最小規模である個人のエゴを極限まで縮小せざるを得ない。

優れた宗教の多くは、個人の有するエゴからの完全な脱却を奨めている。
それが叶うとき、解脱によって輪廻転生が終息し、魂が救われるというのである。
実社会を生きる普通の人間にとって、それは理想主義者の幻想のように感じられる。
けれども、個々の存在が抱えるエゴの総量に応じて、世界はその姿を変えるのだと私は信じている。

実生活の中で、誰もが選択を迫られる場面に遭遇する。個人の利益を優先すべきか、帰属する集団の利益を優先すべきか、あるいはより大なる集団の利益を優先すべきなのかといった選択だ。程度の差こそあれ、我々は常にこうした葛藤と遭遇する運命にある。
実に、この世はこうした様々なエゴのせめぎあいによってバランスを保っている。
生命の本質はエゴなるが故、人が生きる上で、この種の葛藤と無縁でいることは許されないのではなかろうか。
そして、人がエゴに対して十分な抑制と節度を設ける試みに失敗するとき、そこにリセットたる敗北が待ち構えていよう。

No.1<リセット>

最近、映画ではリセットを思わせる結末を目にすることが多い。
大災害だったり、戦争だったり、いわゆる破滅を連想させる類の物語だ。
こうした展開に感じるもの。それは何でもかんでも状況打開が難しくなってきたら「リセットしてやりなおし」的な、テレビゲーム登場以来、増大傾向にあるデジタル思考の危うさである。
現実はそんなものではないと思ってしまう。
問題を置き去りにしたままリセットに頼り、希望を求めて逃げ込んだところで、結局、同じ問題にぶつかるだけなのではなかろうか。
目の前にある問題と向き合うことの大切さを自覚する必要があろう。

一方、このリセットには、究極の予定調和の結果、招いてしまう物という側面があるように思われる。
例えば、現在の穢れた世界に対して特効薬を求めるなら、それは、ある種のリセットによらざるを得ないことだろう。
極論すれば、リセット型の物語に感銘を受けてしまう人が増えると、特効薬を求める大勢の意識に招き寄せられて、この世界に対する極端な反作用が生じてしまうのではないかと危惧されるのだ。

実際、個々の存在が、それぞれにリセットを選択する場面が増えている。
身近な例では「転職」であったり「離婚」であったり、ひどくすると「殺人」であったり、「自殺」であったり。過去における人類最悪のリセットは、核兵器の使用であったといえるだろう。
現在のイラク戦争にしても、「アメリカ様の軍事力でフセイン独裁をリセットして差し上げましょう」というのが表向きのスローガンだった。
けれども結果はご覧の通り。

無論、リセット自体、やり直しではあっても、単なる繰り返しのみを意味するものでは決してなく、局面によって、ポジティブな場合もあれば、ネガティブな場合もあろう。
私は、何事も、らせん状に進化するその過程で、過去に類似した位相を経るものと解釈し、リセットをその節目に位置づけている。

しかしながら、その過程では、当然、乗り越えるべき障壁や課題があり、それをかわしていたのでは進化は望めまい。
つまり、逃避としてのリセットであれば、自殺は勿論、転職であれ離婚であれ、そこに意義や価値を見出すことはできないという立場だ。
それは文明や文化にしても同様で、現況の予定調和としてのみ、リセットを受け入れていたのでは、らせんを描く発展を示すことなく、現状復帰のループに陥ってしまうことにもなろう。

かつての世紀末破滅予言の数々。なぜ、あれほど話題にされたかといえば、予言とは別に、核や環境問題、エネルギー問題など、我々の文化、文明にリセットを与え得る幾多の危険が実在していたからではないだろうか。確かに、めでたく21世紀を迎えることはできたが、その危機的状況には、何ら変わりがない。

私自身は、「個々の存在が有する思いと行いの集積によって世界が変容するのだ」と信じている立場なので、現在の趨勢にはある種の切迫感を覚える。しかし、現実的にリセットは確実に存在し、まさに、起こるべくして起こってしまう。

勿論、リセットにもそれなりの効果はあるのだが、いかんせん要求される犠牲の規模が大きい。では、我々はいかにすればこのリセットを回避できるのか。それはまた、いかにして生きるべきかを問いかける行為に他なるまい。
少しばかり、そこに時間を費やしてみることにしよう。

参考図書 リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」
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