眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて) -7ページ目

<武人の心>

核は、いかなる理屈を用いようとも、誇り高き武人の持つべき道具たりえない。核に頼る精神性の退廃を容認して国を残そうとしたところで、それはもはや形骸に過ぎまい。だが、武器を持つことそれ自体に反対するつもりはない。戦うことを否定したりなぞしない。ゆえに、核の否定は国防の否定では断じてない。護ろうとしているものの違いが手段を選ばせるだけである。

銃器は、その精神性において明らかに刀に劣り、砲は同じく銃器に劣る。発達した武器の使用は精神性の退廃と無縁ではいられない。そして、核を用いた我々の精神性は、もはや落ちるべきところに落ちたのである。
核が登場する以前、戦争にはわずかばかりの聖戦が残されていた。しかし、目的のためには手段を選ばずという精神的退廃の権化として核が登場したのだ。核に頼る以上、そこに聖戦の誉れなどあるはずもなく、生きながらえることに執着する下卑た獣のあさましき諍いがあるのみだ。
核に頼ってわずかばかりの平穏を得たとして、それが果たして長続きなどするだろうか。人類には核兵器使用の前科があるのだ。相手による報復不能を意図した核による先制攻撃を一国が成功させれば、核抑止など笑い話にすらならなくなってしまうだろう。今ある精神的退廃の行き着く先にそれがないとどうしていえるだろうか。

誤解を恐れずにいえば、核を持たぬことで国が滅びたとしても、私はそれでよいと思う。なぜなら、日本精神の滅びぬ限り、それは必ず世界に平和の種子を残すからだ。世界のいたるところに日本精神が芽吹くとき、我々は真の平和を手にするだろう。
未来を生きる子供たちのために残すべき世界が、互いに核の矛先を向けて脅しあう世界であってよいはずがないのだ。
核の脅威は、それを感じる相手にしか威力を持ちえない。ゆえに、我々が外交交渉の切り札に核を持っていないから煮え湯を飲まされてきたと考えるのは間違いである。それは全て核を恐れる、否、死を恐れる精神的退廃のゆえなのだ。命ということだけについていえば、核武装を選択したところで国民の命を危険にさらすことに何ら変わりはないのである。

そもそも、核に頼って残されるものとは一体何だろうか。それに頼って一体何が護られるというのだろうか。命だろうか。目に見える命など、放っておいても数十年で失われるというのに、そのために日本人としての誇りを捨てろというのだろうか。日本人としての誇りを捨てて生きる人々の群れが住まう国を指して日本と呼べるのだろうか。

確かに、非武装の延長にある安直な反核は武人の誇りを汚すものだ。武人が戦うのはその誇りのためであり、戦うことから逃げてその誇りを示すことなどできはしない。勝てない戦だからといって誇り高き武人が逃げ出したりはしない。勝てぬとわかっていても戦うのが武人なのだ。

とすれば、核がなければ戦争が不利になるだとか外交が不利になるだとかいうこともまた、臆病者のいいわけに過ぎず、武人の誇りを汚す言説に他なるまい。
勝つためだからといって武人がその誇りを捨てることがあるだろうか。誇りを捨てた武人の戦いにいかなる意味があるだろうか。そもそも、誇りを捨てた武人を武人と呼べるだろうか。
武人の誇りを汚すという点において、安直な核武装論もまた、安直な反核と大差はないのである。
核を持ってさえいなければ核攻撃を受けないと信じる安直な反核論者、核を持ってさえいれば核抑止が働いて核攻撃を受けないと信じる安直な核武装論者、どちらの言い分も浅はかであることこの上もない。

<核をもつデメリット>

<温暖化理論の虚妄>でも述べたが、わが国の原子力発電所はエネルギーを効率的に得ることを目的としたものではなく、将来の核武装を企図した技術の保管庫、いうなれば核開発施設であったと考えられる。しかし、それらの原発は建設当初から耐用年数が40年といわれていたが、今日、1970年代に造られたそれらの多くが、そこに達しようとしている。今後、それらを廃炉とするか、核武装のために稼動させ続けるのかについて、我々は決断の時を迎えているのではないだろうか。

実のところ、核戦争それ自体は核兵器を持つことなく行うことが可能である。つまり、こうした核開発施設、原子力発電所を標的として通常兵器による攻撃を行えば、人口の密集する国土の狭い国に致命傷を与えるのは造作もないことなのだ。
ひるがえって、日本は国土が狭い上に地質学的に不安定な土壌を抱えており、他からの攻撃を待つまでもなく、地震によって活断層の近傍に位置する原発が破壊されれば自滅してしまう可能性を潜在的に有している。浜岡原発の危険は言うまでもないことだろう。
即ち、日本は地質的、地理的に、核武装に向いていないという特性があることを指摘することができるのだ。

もし、将来の核武装を企図するのなら、敵の攻撃に対しても安全性を確保するための堅牢な構造が原発に必要になることはいうまでもない。しかし、それを保障するためにどれだけの予算が必要になるだろうか。また、自前の核で応戦するとなれば、核による先制攻撃の後も反撃し得る軍事力、核弾頭の絶対数が必要とされるので、そこには膨大な防衛費の投入が必要とされるだろう。つまりは、軍事大国化するために国内経済を疲弊させた身近な失敗国家と同じ轍を踏むことになるわけだ。しかも、わが国においては、不用意な核実験は自国民の被爆者をつくり出すにとどまらず、人工大地震を引き起こしてしまう可能性も示唆される。

これらの事実を直視することなく、核武装に固執することにどれだけ意義があるだろう。確かに、国の存続を目的とするなら、現状、核武装はやむを得ぬ選択であるという意見はわからぬでもない。しかし、そのために払われる犠牲の大きさに目が届かぬ核武装論は現実的というにはあまりにお粗末だ。
そもそも、我々日本人が生き残らねばならぬ理由とは何だろうか。私はそれを日本人の精神性にあると考えるが、しかしそのために核に頼るというのでは重大なる自己矛盾である。

いかなる理屈を用いようとも、核を持つことによって核廃絶が達成されることなどありはしない。虎を飼うには堅牢な檻とえさが必要なのであり、えさ代も決して馬鹿にはならない上、いつ何時喉元を食いちぎられるかわかったものではないということだ。虎は飼わないのが一番である。

<核に頼るということ>

過去、二度の世界大戦を通じ、世界は総力戦の恐ろしさ、悲惨さを体験した。総力戦になれば、ルール無用、民間人を標的にすることも全く躊躇されない。
そもそも、ルール無用の喧嘩には勝ち方がある。それはつまり、金的蹴り、目潰し、頚椎への攻撃、関節破壊を躊躇なく行い、相手を不具不能にすることだ。あるいは、拳銃や刃物など、相手が所持していない武器を用いるのもよい。要は卑劣な手段を用いた方が優勢となるのだ。
だが、伝統的な日本人はそのような手段にうったえる相手を指して卑怯者と呼ぶ。
ルール無用の戦いにおいては、より卑怯である方が優勢となるのだが、それによって本当に勝利と呼べる誉れを得ることができるだろうか。
過去の大戦では、民間人を標的にした爆撃が行われ、さらには核爆弾がその頭上に投下された。これはまさに残虐非道、卑劣の極致である。

核兵器に頼るとは自らその卑怯者に成り下がることを意味する。報復に用いたところで、犠牲になるのは一般市民なのだ。にもかかわらず、核抑止の理屈に騙されてこれに頼ろうとするのは、それこそ米国的精神腐敗のなせる業ではないだろうか。
核を用いた米国は先の大戦でわが国に勝利したのでは断じてない。彼らは、日本人の誇り高い不撓不屈の精神を前にして、核を使わずにはおれなかった卑怯者に過ぎない。しかるに、その卑怯者たちの真似をして国を守ろうなどと発想する輩が後をたたないのは実に嘆かわしいことだ。

卑怯者は問う。相手が核を切り札に攻撃してきたらどうするのかと。簡単なことだ。核によって殲滅されることを覚悟の上、至高の精神とともに通常兵器で戦えばよいのである。核を恐れるあまり核に頼るというのでは生命至上主義を奉じるサヨク主義と何ら変わることがない。米国のごとく、魂を売ってまで生き残る必要はないのだ。核に頼る非道に身を落すくらいなら、皆で死ねばよいのである。死を恐れるより、魂を売ることをこそ、真に恐れるべきだ。核抑止によって平穏を得ようなどという発想そのものが重大なる日本精神の退廃である。そのようなもので保たれた平穏が長続きするはずがないのだ。使わぬ兵器のために払われる犠牲の大きさに思いが及ばないのは、そこに見えざる精神の退廃があるからではないだろうか。

核に頼らねば滅びてしまう国は、いずれその核そのものによって滅びてしまうのが必定である。

<ある友人の話-追記ー>

民族や文化が異なっても、人類共通の伝統的な正義というものがどこかにあるのかもしれない。ただ、日本の中だけにいれば、その正義と出会う機会は極めて少ないことだろう。私の友人の得た満足感は、そうした稀有な機会に恵まれたことに由来するのではないだろうか。そして、人類共通の正義があるからこそ、核兵器を民間人の頭上に投じた米国の所業の邪悪さをあらゆる国の人々が認識したのだ。ゆえに、覇権国家の民でありながら、米国人の多くが、海外渡航の際、身の安全のために度々国籍を偽る必要があるのではないだろうか。

今日、非核を訴えるわが国でも、米国のように核兵器を持たなければ国際社会での発言力が軽んじられるという考え方が数多く見受けられるようになったが、私は必ずしもそうは思わない。国際貢献力を堂々と誇示することによって国威を示せば済む話だと思っているからだ。もっとも、そのためには日本に巣食う反日勢力を教化、または駆逐し、国民全体が自虐史観から脱却する必要がある。日本人による国際貢献は、贖罪のために行われているのではなく、愛に根ざした高貴なる行動であることを内外に示すためだ。

人類共通の正義に立脚した理想国家を構築し、核をもつことなく国威を示すことがかなうなら、世界は日本を仰ぎ見てこれに倣うことだろう。さすれば核抑止などという悪魔の理屈を前時代の遺物とすることができると私は信じる。
持つべきは国徳であって、核ではない。徳高い高僧に刃物を向けるのは勇気の要る話ではないだろうか。
核の恐怖を元手に互いをけん制し合って平穏を得たところで、それが長続きするはずのないことは自明の理であり、その平穏の終結は人類にとって破滅的大惨事を意味する。
核に頼らなければ滅びてしまう国は、その核によって遠からず滅びてしまうことだろう。

<ある友人の話>

英国人女性と結婚した私の友人は、中学英語教師としてのキャリアを捨て、細君の希望するまま英国で暮らすようになって早6年になる。
現地で彼は半導体製造業に従事し、スーパーバイザーとしての仕事をこなしているが、昨年、彼にとっては困難な時期があった。

職場の都合で、彼は自分の上司の仕事をもこなさねばならなくなり、多忙となってしまったのだが、悪いことに、そのとき彼とその家族は新居への引越しという大イベントを抱えていた。細君は定刻に仕事を終わらせて帰宅し、引越しの手伝いをするよう彼に催促するのだが、彼にしてみれば公の仕事をなおざりにして私の仕事を優先するわけにもいかず、定刻を過ぎても帰らぬ日が続くこととなった。
家族と仕事の板ばさみに苦しみながらも、彼は黙々と仕事をこなした。なぜなら彼は日本人だからだ。

だが、結果的に彼は格下げとなってしまう。それは、会社の評価項目のいくつかを達成できていないことによってであった。勿論、彼は最善を尽くしていたのだが、部下を叱咤して無理やりできないことをさせるような真似をしなかっただけのことであった。
何の予告もなく格下げを食らった彼に対し、彼の部下たちは自主的に彼のために嘆願書をまとめ、皆で署名して会社に提出した。会社の理不尽に対し、団結して彼を救おうとしたわけだ。がしかし、それは会社にとっては前代未聞の事件であった。

英国にあって、製造業に従事する労働者は様々な国と異なる民族で構成されており、文化も価値観も皆異なる。けれども、そんな彼らが一様に一人の日本人を救おうと奮起したのだった。それは彼らにとって決して得になる話ではないにもかかわらずである。彼は自分の上司から、それが会社にとって全く前例のないことであると伝えられた。
結局、部下たちの願いもむなしく、彼の格下げがくつがえることはなかったが、人間、文化や価値観が違えども、心の奥底では必ず通じるものがあると確信できて、彼はどこか満足だった。
一時帰国して私にそう話してくれた彼の顔には、紛れもなく日本人の誇りと気概が覗いていた。

<「国家の品格」批評に思う>

藤原正彦著「国家の品格」は評価がわかれていてなかなか面白い。特に、有識者を自認する方々からの批判にはかなり辛辣なものも含まれる。いわく、「わかっていない」のだそうだ。

物事が「わかる」ためにはそれ相応の知性と感性が必要とされる。知性の働きは即ち理性をつかさどり、感性の働きは即ち悟性をつかさどる。
知性を測る尺度は比較的明瞭であるのに対し、感性を測る尺度は曖昧模糊として疎かにされることがしばしばだ。ゆえに、後者に欠ける人々は自分たちの抱える危うさに自覚のないことが多い。理知に長けていても、悟性に欠ける人々には、自分たちの抱える危うさが「わからない」のだ。だから、情緒が大事などといわれても、その意味するところがわからず、頓珍漢な批判を行ってはばかることがない。
無論、感性ばかりが先んじて理知に磨きをかけることを怠る人々もまた「わからぬ人」であることは間違いがない。しかし、「わからぬ人」とはそればかりではないと説いたのが本書であろう。

ゆえに、藤原氏がまさにそうした危うき人々から的外れな批判を浴びるのは至極当然であるといえる。なぜなら相手の無知を攻撃するのはたやすいからだ。
けれども、知性と感性の双方において、氏を超える見識の持ち主からの妥当な批判を見出すことは極めて稀であるように私は思う。

<派遣業の本質>

確かに、今日あるような雇用不安、社会不安の原因の一つとして派遣業の存在をあげることはできるだろう。しかし、それのみに原因を求めることはできない。派遣法改正の前にはフリーターやニートの増大、企業による一方的な人員整理の増加があり、改正派遣法は雇用主と労働者双方のワガママ化、利己主義化、獣化を手助けしただけであるからだ。
そもそも、派遣業とは現代に復活した奴隷産業に他ならず、しかもその本質を知る者たちによって意図的に拡大されてきた感がある。それが日本企業を骨抜きにするために画策された陰謀の結実であるなどといえば、陰謀マニアとのそしりを免れ得ないかもしれないが、年次改革要望書の存在は根拠の一つにはなり得るだろう。

ここまで肥大した派遣業を誰が担っているのかといえば、その多くは暴力団である。彼らは破防法以降、一般企業と見分けがつきにくくなってしまったが、彼らにとって派遣業はもっとも取り付きやすいカタギの仮面であった。ゆえに、派遣業の縮小を声高に叫べば、恐ろしい人たちを呼び寄せてしまうことになるだろうし、政治家もそういう人たちを本気で敵に回そうとは考えない。しかも、一方では教育の荒廃によってまともな仕事で長く就労することの困難な若者たちが量産されているので、その受け入れ先としても派遣業はちょうどよいのである。逆に、派遣業がなければ彼らの受け入れ先を別の形で確保せざるを得まい。結局、派遣の問題は企業が悪いのか労働者の自己責任なのか、ニワトリが先かタマゴが先かという問題に等しくなってしまうのだ。

とすると、目先の解決は見込めそうにない。しかしまず、派遣業の多くがヤクザの隠れ蓑であり、合法化されたヤクザ稼業であるという実態を社会が認知すると同時に、利己的な体質を企業と個人双方で戒めていく風潮をこそ再興する必要があるだろう。勿論、派遣業を政治が規制することは急務だが、この業種自体を兵糧攻めにして廃業に追いやる道もあるはずなのだ。そして、そのためには社会のあらゆる局面で行われる教育と啓蒙によって社会全体が愛を取り戻す必要があると私は思う。

ここで興味深いお話をご紹介申し上げる。あるニートが徐々に社会との結びつきを深めて正社員への道を歩んでいく過程を綴ったお話である。問題解決のヒントが隠されているのではないだろうか。

「うちの母ちゃんすごいぞ」
http://mudainodqnment.blog35.fc2.com/blog-entry-804.html

<温暖化理論の虚妄-その3-脱原発の奨め>

近年、ようやくCO2悪玉論に反論する書籍のいくつかを書店で目にするようになったが、それでもなお、マスコミはそうした反論の多くを黙殺し、本気で取り扱おうとはしない。新聞に「CO2を排出しない原発」などといった広告が大々的に載るのをみると、暗澹たる気持ちにさせられる。CO2悪玉論の背後には原発推進があるのだが、原子力発電は、エネルギーを得るために投入されるコストと、有効利用される電力とのかねあいでみれば非効率的といわねばならず、原発でエネルギーを得ているがゆえに電気料金は割高になっている事実を知る人は少ない。
経産省から公表されている電源別発電コスト比較によれば、電源別発電コストは原子力:5.3円、石炭火力:5.7円、LNG火力:6.2円、石油火力:10.7円、水力:11.9円/1kW・h(平成16年)で、原発はコストパフォーマンスが良いということになっているが、この原子力発電のコスト計算は欺瞞に満ちている。
もともと原子力発電はオン・オフを容易に行うことができないため、揚水発電所を併設して電力需要の増減に対処するのが一般的だが、この揚水発電所の建設、維持に関わるコストが不透明な上、原発コストの計算に含まれていないのである。実際にそれらを含めれば、原発は非効率的であることが明らかになるだろう。

ゆえに、こうした表向きの電源別コスト比較で原発推進をのたまう輩の胡散臭さには閉口せざるを得ない。因みに、太陽光発電のコストは46円、風力発電:12~20円であり、こんなものは造れば造るほどに電気料金を高騰させてしまう。エネルギーを得る手段としてコストがかかるということは、本来ならばそのお金で化石燃料を買って余分に発電できるということである。
しかしながら、将来、本当に石油が底をつきはじめてこれが高騰するなら、化石燃料を大量消費せずに済む発電方法がより良いということにはなるだろう。
とはいえ、現状では原発にせよ太陽光発電にせよ、技術の保管庫という以上の存在意義はない。巷では、既存の火力発電では電力を十分にまかなうことができないため、原発を手放すことはできないと考える人が多いが、これは誤解に過ぎない。なぜなら、実際には既存の火力発電で、十分に電力をまかなうことが可能だからだ。しかしながら、オン・オフを容易に行うことができない原発を稼動させるため、わざわざ多くの火力発電所が停止されているのである。つまり、火力発電のオン・オフで電力需要の増減に対応している側面があるというわけだ。

http://www.kisnet.or.jp/net/koide.htm

より
<引用開始>
「いまや、原発の電気は3割にも達してしまっていて、原子力から抜け出ることはできない」との考え方があります。たしかに日本では現在、電力の30%を超える部分が原子力で供給されています。そのため、ほとんどの日本人は原子力を廃止すれば電力不足になると思わされています。また、今後も必要悪として受け入れざるを得ないと思っている人も沢山います。そして、原子力利用に反対すると「それなら電気を使うな」といわれます。
しかし、発電所の設備量で見ると、原子力は全体の18%しかありません。その原子力が発電量では3割を超えているのは、原子力発電所の稼働率だけを上げ、火力発電所のほとんどを停止させているためです。原子力発電が生み出したという電力をすべて火力発電でまかなったとしても、なお火力発電所の設備利用率は7割にも達しません。それほど日本では発電所は余ってしまっていて、年間の平均設備利用率は5割にもなりません。つまり、発電所の半分以上を停止させねばならないほど余っています。ただ、電気は貯めておけないので、一番たくさん使うときにあわせて発電設備を準備しておく必要があります。それでも、最大電力需要量が火力・水力発電の合計でまかなえなかったことは実際にはほとんどありません。結局、多くの人々の恐れ、あるいは刷り込まれてしまった誤解・錯覚に反して、原子力を即刻廃止したところで、何の支障も生じません。そうであれば、現実の生活が崩壊することを恐れるのではなく、原子力を選択することの利害得失を冷静に論理的に考えることこそ必要なことです。
<引用終了>

つまるところ、エネルギーを得る手段としての原発に存在意義はない。のみならず、原発は安全性が確立されているとは言い難いテクノロジーなのである。しかし、日本が潜在的な核保有国であるため、即ち将来において核自衛するためには必要な施設であり、我々の払う電気料金のいくらかは、各自が好むと好まざるとに関わらず、その維持に貢献しているといえる。このあたりを是とするか否とするかは意見の分かれるところかも知れない。
確かに、日本の核自衛を促す声は少なくないが、そのためには危険な原発を保持しなければならない。一方、わが国に対し、敵対国がそれらを標的にすれば、核兵器を用いることなく核攻撃と同等の戦果をあげることができるという事実に気付く人は少ない。
そうでなくとも、日本は地震が多い国である。地震によって起こり得る原発の大災害は、戦争によって生じる人的及び物的被害に勝るとも劣らぬことだろう。日本という国は、原発を抱え込むにはあまりに国土が狭く、そして地震が多すぎるのである。つまり、わが国は、もとより核自衛、核抑止といった防衛構想には向かない地質的、地理的条件を備えた国であるといえるのではないだろうか。日本が核を持とうとするのは、体格に劣った者が格闘技で身を立てようとするのと同じことだ。

ゆえに、核保有国であることにお金をつぎ込むのでなく、それを経済戦争の軍資金として用立て、わが国の存在なくしては成り立たぬ経済システムを他国に構築していくことで国を守ることを考えるべきではないだろうか。日本がCO2排出権ビジネスに巻き込まれてしまえば巨額の損害を被ることは必至であり、そのお金をどこにつぎ込むべきか、深慮が必要であろう。CO2による地球温暖化論によって、世界に芽生えていた脱原発の潮流は途絶えてしまったが、その虚妄に気付いた今、我々人類が再びとりもどすべきは、やはり脱原発であると愚考する。

<少子化対策は本当に必要なのか-その11-高齢者の定義>

厚生労働省の人口統計では65歳以上を老年人口と定めているが、これは1960年にWHOの提案を受け容れたものに過ぎない。しかし、その1960年代、日本における平均寿命は男性65歳、女性70歳であり、2007年における日本人の平均寿命である男性79歳、女性86歳に比べると、実に15歳の隔たりがある。
ゆえに、40年前の高齢者の定義を、そのまま現代に当てはめることが妥当であるか否かを考える必要があると古田氏は指摘する。現在は当時に比べ、はるかに寿命が延長し、巷には元気な老人があふれかえっているのだ。

参考図書・古田隆彦著「日本人はどこまで減るか」より
<引用開始>
実際、現在の65~74歳は体力、気力もかなり充実し、仕事や貯金で経済力も維持しています。もはやこの年齢の人々を老年者とか高齢者と呼ぶのは間違いでしょう。60年代に平均寿命が70歳前後のとき、上の方の約1割分の65歳以上を老年者としたのですから、寿命が85歳前後になった今では、やはり上の方の約1割分の75歳以上に上げるべきです。
<引用終了>

これは、一度に老人の定義を変えてしまうことはできないにしても、段階的にその定義を引き上げて種々の社会保障制度を再設計してみてはどうかという提案である。
つまり、年金については給付開始の年齢を段階的に引き上げれば良いし、種々の社会保障費を支える生産年齢人口には65歳以上を徐々に加えていけば良いという話だ。
しかしながら、問題は65歳以上の雇用創出であるとも古田氏は指摘する。確かに、そのために定年を漸次引き上げるならば若年者の新規採用はさらなる縮小を余儀なくされることだろう。もっとも、それならば少子化が進んだ方が、将来、職にあぶれる者が少なくて良いということにもなってしまう。

結局、今日のように雇用の有効需要が不足している状況で少子化だけを嘆いてみても仕方がないのである。新たな産業の開拓と雇用創出こそが急務なのであり、それに比べれば少子化それ自体はさほど問題にはならないといえるのではないだろうか。

<少子化対策は本当に必要なのか-その10-人口を抑制する力>

人口容量が拡大した際、実人口が人口容量を下回っている分は人口を増加させる力として働くというのが愚見だ。しかし、人口容量を拡大させる力のほうは、個々の生活水準を向上させる力としても働く。この、個々の生活水準を向上させる力によって一人当たりが利用するエネルギーが増加するため、人口容量の拡大はやがて減衰し、実人口が追いついてくることで人口増加は停滞することになる。

人口が定常化し、いわゆる静止人口を保つためには、人口容量と実人口が均衡を保ち続けなければならないが、実際には利用可能なエネルギーの変動と、生活水準の向上によって、人口は振動することを余儀なくされると考えられる。利用可能なエネルギーが有限である場合、そのキャパシティーに応じて人口は振動しながらもゆるやかに減衰傾向を示すに違いない。なぜなら、人間は人口容量を増大させるために自らの生活水準を落とし、個々が利用するエネルギーを減らすという選択肢をとることはまずないからだ。具体的にいえば、種々の社会保障水準を落とし、都会に暮らす若者を無理やり農村に住まわせるという有難くない選択肢がとられることはまずないという意味である。

このように、人口は増加の局面と減少の局面を繰り返すと考えられる。人口が減少するのは人口増加力がマイナスに転じることによって生じるが、それは人口容量を実人口が超えたことを意味し、その力は人口を抑制する力として働く。近代人口学の開祖・マルサスによれば、人口抑制には能動的抑制と予防的抑制があるという。能動的抑制には主として貧困や罪悪が、予防的抑制には晩婚化や非婚化、堕胎などがあり、古田氏は前者を動物と同じ次元の人間の生理的反応、後者を人間特有の文化的反応であるとして、人間は他の動物と異なり文化的抑制力が働くのが特徴であることを指摘した。これは我々の社会が抱える諸問題を考える上で実に興味深い。