眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて) -6ページ目

<派遣業の本質>

確かに、今日あるような雇用不安、社会不安の原因の一つとして派遣業の存在をあげることはできるだろう。しかし、それのみに原因を求めることはできない。派遣法改正の前にはフリーターやニートの増大、企業による一方的な人員整理の増加があり、改正派遣法は雇用主と労働者双方のワガママ化、利己主義化、獣化を手助けしただけであるからだ。
そもそも、派遣業とは現代に復活した奴隷産業に他ならず、しかもその本質を知る者たちによって意図的に拡大されてきた感がある。それが日本企業を骨抜きにするために画策された陰謀の結実であるなどといえば、陰謀マニアとのそしりを免れ得ないかもしれないが、年次改革要望書の存在は根拠の一つにはなり得るだろう。

ここまで肥大した派遣業を誰が担っているのかといえば、その多くは暴力団である。彼らは破防法以降、一般企業と見分けがつきにくくなってしまったが、彼らにとって派遣業はもっとも取り付きやすいカタギの仮面であった。ゆえに、派遣業の縮小を声高に叫べば、恐ろしい人たちを呼び寄せてしまうことになるだろうし、政治家もそういう人たちを本気で敵に回そうとは考えない。しかも、一方では教育の荒廃によってまともな仕事で長く就労することの困難な若者たちが量産されているので、その受け入れ先としても派遣業はちょうどよいのである。逆に、派遣業がなければ彼らの受け入れ先を別の形で確保せざるを得まい。結局、派遣の問題は企業が悪いのか労働者の自己責任なのか、ニワトリが先かタマゴが先かという問題に等しくなってしまうのだ。

とすると、目先の解決は見込めそうにない。しかしまず、派遣業の多くがヤクザの隠れ蓑であり、合法化されたヤクザ稼業であるという実態を社会が認知すると同時に、利己的な体質を企業と個人双方で戒めていく風潮をこそ再興する必要があるだろう。勿論、派遣業を政治が規制することは急務だが、この業種自体を兵糧攻めにして廃業に追いやる道もあるはずなのだ。そして、そのためには社会のあらゆる局面で行われる教育と啓蒙によって社会全体が愛を取り戻す必要があると私は思う。

ここで興味深いお話をご紹介申し上げる。あるニートが徐々に社会との結びつきを深めて正社員への道を歩んでいく過程を綴ったお話である。問題解決のヒントが隠されているのではないだろうか。

「うちの母ちゃんすごいぞ」
http://mudainodqnment.blog35.fc2.com/blog-entry-804.html

<ターニング・ポイント>

無限存在としての視点を以って有限存在のありようを決定していくことは、有限存在にとって危険であるのは間違いない。なぜなら、“あるがまま”の思想を用いれば、警察不要、監獄不要、軍隊不要とあいなってしまうからである。現実世界の危険とはそういうことだ。神がどうしたこうしたと言ってみたところで、所詮人間はそのように上等な代物ではないというニヒリズム。

核抑止が既に半世紀以上、有効に機能してきた実績を持つと考える御仁は多い。しかし、人類の歴史にとって、この半世紀など瞬きをする間よりも短い期間でしかない。来年にでも、否、今年にでもその均衡が破られぬという保障はないのだ。ゆえに、果たしてそれを実績と呼ぶことができるものか私には大いに疑問である。人類が核を抱える以上、カタストロフの危険を払拭することができないのは自明の理だからだ。非武装の延長にある反核がそうであるように、核抑止もまた根拠なき信仰の一つに過ぎまい。そして、その信仰はたった一度の先制核攻撃によって木っ端微塵となる定めにあるのではないだろうか。

人間はそれほど上等な代物ではない-これは今ある現実である。そして、この現実をかかえるがゆえに我々は警察を必要とし、軍隊を必要とし、そして最後に核兵器を必要としてきた。ところが、パンドラの箱を開けてみて我々は気付いたのではないだろうか。核抑止の延長にある平穏は、所詮一時的なものに過ぎず、その先にあるのはカタストロフ、即ち大量絶滅であると。

核に頼る国に住まう人々には必ずや精神の退廃が進むことだろう。そして、その退廃の行き着く先にあるのが、ルール無用の大量殺戮なのだ。先制核攻撃を成功させれば戦争に勝てるのだから、勝利を確信することができさえすれば、獣化した人々がそれを選択することに何のためらいがあるだろうか。人間はそれほど上等な代物ではないという今ある現実、悪しき伝統をそのままに受け継ぐ限り、人類の歴史は同じことの繰り返しである。

核抑止は人々の獣化を促進し、やがては破滅の道をいざなうことになる一方、それに気付いて自らの破滅をかえりみず核と決別する勇気を示すならば、その国に生まれる子供たちの精神性は飛躍的に神へと近づくことだろう。
これにより、神のごとき人々の住まう国が地上に出現する奇跡を生ぜしめ、他国がこれに倣うならば、人類は新しい時代を築くことになるのである。そして、神々の世界に住まうようになった人々は思うことだろう。
核に頼らぬ勇気を示したそのときこそが、ターニング・ポイントであったと。

<神性と獣性>

死にいたる老人が自宅で息を引き取ることがほとんどなくなってしまった昨今、現代日本人の多くが死を身近に目撃することがなくなってしまった。このため、半ば盲目的に死を恐れる人々が巷にはあふれかえっているように見える。
しかし、死よりも恐ろしい、むごたらしい生などいくらでもあるというのに、死ばかりを恐れるのはナンセンスだ。
死は神の与え給うた救済の一つだと私は思う。目に見える命の営みにばかりとらわれていると、命より大切なものの存在を見失ってしまうのではないだろうか。命より大切なもの、それは人としての誇りである。

では人の誇りとは何であろうか。それを慈悲の心を持つことだと考える人もいる。しかしながら、その誇りを捨ててしまった人間も少なからず存在する一方、興味深いことに慈悲の心を持つ獣も存在する。西洋では悪役が定番の狼だが、その生態に詳しい学者の観察によると、この慈悲心ゆえに、狼は自らの餓死をかえりみず捕らえた獲物をあえて逃がしてしまうケースがあるという。そのことを昔の日本人が知っていたかどうかは定かでないが、日本における狼の名の由来は大神なのだそうだ。実際、狼には異種族である人間の子供を育てた記録まである。

慈悲の心とは人の心ではなく、神の御心だと私は思う。そして、人はその神性と獣性とを併せ持つ矛盾した存在であり、あらゆる生き物の中で、もっとも神に近いというだけではないだろうか。インドの古い哲学によれば、人は輪廻転生を繰り返して神にいたる途上にある何者かであり、神と一体となったとき、その営みを終える、つまりは、生まれてくることがなくなるという。今生を日本人として生きる私の来世がアメリカ人になるか、はたまた中国人になるかは神のみぞ知るだが、今後日本が核武装を選択すれば、次は北欧かカナダあたりに生まれることだろう。

とはいえ、こうした慈悲の心は組織対組織、種族対種族には働きにくいのかもしれない。しかし、神の御意志が我々に何を求めているかは明白ではないだろうか。
人間界、自然界の営みに目をやると、利己的に過ぎた組織や種族には早くに滅亡が待ち受ける一方、利己と利他を統べる組織なり種族なりには長きにわたって繁栄があるように見える。つまり、神は我々に神に近づくことをこそ、求めているということだ。

ゆえに、もし、このまま人間社会がその獣性のままに利己的であり続けるならば、早晩、核兵器によって自滅を余儀なくされるのではないだろうか。
反対に、その獣性を統べ、慈悲心に基づいて核を持たぬ勇気を示すならば、人類は新しい歴史を築くことができるだろう。それが神の計画であり、御意志であると私には強く感じられる次第である。

<ヤクザ国家の末路>

既存の核保有国はヤクザ国家に相違ない。核に依存する韓国もまた弱小ヤクザ国家である。日本もまた米国の核の傘に依存した段階から退廃への道を歩み始めたヤクザ国家の出来損ないだ。ただ、憲法9条ゆえにヤクザにもなりきれず、かといって堅気にもなりきれぬ半端者といえるだろう。同じヤクザの土俵に立っているから、どれほど国際貢献に尽力しても存在感を誇示できず、ゆえに自前の核を希求せずにはおれないのである。米国による核の傘を離れ、それでもなお核を持たぬ信念を貫くなら、日本は世界で最も誇り高く、気高い仕事をなしうることだろう。そのような国はいかなる恫喝にも屈することなく、いかなる精神汚染にも毒されず、いかなる強国からもその支配を受け付けぬに違いない。日米安保を方便として復興につとめてきたはずが、目的となってしまったがゆえに日本精神の見えざる退廃が広がったのである。

巷では失うことを恐れ、迫りくる死におののく人々であふれかえっている。目に見えるものはいずれ全てが失われてしまうというのに。平均寿命は世界一であるにもかかわらず、幸せに生きることが困難になってしまった人々の何と多いことか。政治がわるいから幸せになれないと人はいう。しかしながら真実は違う。我々一人ひとりが見えざる精神汚染を抱えているから、政治家や官僚もそのような次元でしか物事を判断できずにいるだけだ。
確かに、現状で日本はヤクザ国家への道を着々と歩んでいる。しかし、それは本来、日本のあるべき姿では決してない。伝統的な日本精神に目覚め、核と決別する真の勇気を取り戻すなら、日本は世界の歴史上、類をみない理想社会を実現しうるのだ。

理想を掲げぬ現実主義者など、ただの横着者である。真の現実主義者は、現状認識と将来の展望とを混同することはない。そして明確なビジョンを持つからこそ、その実現を信じて努力を惜しまないのである。国家のあるべき姿は2年や3年で形にすることなどできはしない。10年、20年、あるいは50年先のビジョンを描いて努力しなければ実現不能だ。世界規模のビジョンともなれば100年、200年を要するだろう。100年単位のビジョンを実現するには世代を超えた精神のリレーが不可欠なのだ。ゆえに、真の平和を実現するためには核と決別できる精神性の獲得が重要な懸案になるのである。

核兵器を生きる手段とする国に生まれる子供たちは思うだろう。核をもつのは、死なないためには仕方のないことだ。死ぬのは一番わるいことだ。人間、死んだらおしまいだ。自分が死んでしまうくらいなら、どんな卑怯も許されるのだと。死は敗北であり、敗北は死に値すると。それが伝統的日本精神の崩壊でなくて何だというのだろうか。私のいう伝統的日本精神とは、どれほど己が苦境に立たされたとしても、卑劣、卑怯な手段にうったえない精神のことだ。非道に身を落とすよりは死を選ぶ誇り高い精神のことだ。核兵器は、本質的に市民虐殺の道具であり、誇り高い武人の持つべき道具ではない。持たねば死ぬということを理由に持つことそれ自体、重大なる精神の退廃である。

精神の退廃した子供たちは、たった20年で成人し、精神汚染を周囲に撒き散らすことだろう。30年もあれば子供をつくり、さらにその子供たちが成人する50年先の精神汚染は取り返しがつかないレベルに達しているだろう。そのような人々の群れがいかなる国をつくれるというのだろうか。そのように退廃した国は、核攻撃を待たずして跡形を残さず消滅してしまうことだろう。わが国においても、既にその徴候がではじめているのは間違いない。
オリンピックにおいて、核を保有する国々の選手や指導者、審判にみられる信じがたい違反行為、スポーツマンシップに背く卑劣な行為の数々の根がどこにあるか、鋭敏な者ならば悟れるはずだ。わが国の国民が、あのような国の人々と同じようになってしまうことは断じて避けねばならない。

精神性の退廃が核自衛を国是とするのであり、同時に核自衛が精神性の退廃をもたらすのだ。日本がそのようなヤクザ国家にならぬために、核自衛などすべきではない。核をもちたがる精神性、あるいは核に頼ろうとする精神性に、その退廃が潜んでいるのではないだろうか。

<現実的な選択>

核抑止は核武装によって敵に対し核による報復を恐れさせ、その使用を躊躇させることを目的とし、ゆえにその使用は“絶対ない”ということを前提とした単なる理屈に過ぎないものである。しかし、核による先制攻撃がないという信仰の担保はどこにもない。むしろ、歴史的には使用の前科があるくらいだ。つまり、核抑止もまた、何の根拠もないただの信仰、それも極めて悪質なカルト教の教義に過ぎないのである。
それがカルト教である証拠に、信者の多くは核による先制攻撃の可能性を一顧だにできずにいる。それは思考停止以外の何ものでもなく、教祖のいかがわしさを露ほども疑わぬ狂信者のスタンスと大して変わることがないといってよいだろう。

核武装を支持する人々はそれが現実的な選択であると皆いう。にもかかわらず、それに伴って生じるデメリットを克服する満足な考察にはお目にかかったことがない。また、実際にわが国が受けるかも知れぬ核攻撃の可能性についても、どこの国がわが国の何を目当てに攻めてくるのか説得力のある政治的根拠にお目にかかったこともない。つまりは、現実的とはいいながら、自分たちの理屈、信仰にとって都合のよい事実しか目に入っていないということである。あるのは持たねばやられるかも知れぬという根拠なき不安のみなのだ。
そのような人々に、民主党の受け狙い政策を批判する資格などあるはずもない。政治判断は現実的でなければならぬことだろう。あちらを立てればこちらが立たなくなってしまうのが政治であり、立たない側に対する配慮が不可欠なのである。核武装も同じことだ。その配慮がなくて、現実的とは聞いて呆れる。

現実は否応なく我々に難題をつきつけ、選択を要求する。多くは理知的には解決不能な矛盾を抱えているものだ。そのとき、何を基準に物事を選べばよいというのだろうか。その基準となるものこそ伝統精神に他ならないのではないだろうか。選択の結果がどうなるかなど、人の浅智恵でおいそれとわかるものではない。ゆえに、何に依拠して選択したかが重要になるのだ。日本の伝統精神の延長に核武装はない。それゆえ私は決して核に頼ろうとは思わない。選択の結果は思いの結実である。思いが現実をつくり出すのだ。核によって立つ者は核によって滅びるのが必定である。核武装の選択の先には、悲劇を超えた悲劇、悲惨を超えた悲惨の姿があるのみだ。

今ある日本は過去の思いの結実である。非核の決意、不戦の決意は伝統的な武人の誇りがそうさせたものだ。総力戦を経験するまで、世界は国家間のいざこざの多くを戦争で片付けていた。つまり、戦争は一定のルールをわきまえた外交手段であったわけである。しかし、非戦闘員を標的にする時代の到来とともに、武人の戦、聖戦は跡形もなく姿を消し去ったのではないだろうか。核の使用はそれを決定付けたのだ。だからこそ、誇り高い日本人は戦争や核兵器を外交の切り札とするヤクザな世界から身を引いたのである。そして、その決断は伝統精神の権化にしてその具現者たる天皇陛下の御意志に基づいて行われたものだと私は信じる。国土を焦土と化した経験を持たぬ米国だけが、破廉恥にも未だ戦争を外交の切り札に用い続けているだけの話だ。目的のためには手段を選ばずという精神の退廃に無頓着であることは、祖先に対する重大な裏切りではないだろうか。

確かに、己とその周囲の限られた命に対してのみ敏感な誇り無き愚民が核を持ちたがるのは止むを得ないことだ。しかし、そのような愚民たちによって、わが国の伝統と誇りが汚されるのを承服することなど私には到底できない。
人間にとって、もっとも大切なことは思うことだ。次に大事なのはその思いを行動にうつすことである。思いと行いが一致せねば矛盾が生じ、その矛盾は結局、めぐりめぐって己自身を苦しめることになるだろう。理想と現実との隔たりをつくりだすものは思いと行いとの隔たりなのだ。思いは命である。思いは時を越え、世代を超えて生き続ける。核に頼らぬ世界をつくりだすためには、核に頼らぬ国、核に頼らぬ己を思わねば、それが実現することは決してないことだろう。

<誇り高く生きよう、喜びにあふれ>

私の先輩医師が、医師会報に寄稿した提言より引用させていただきます。

<引用開始>
ロック歌手の忌野清志郎さんが、5月2日癌性リンパ管症のため亡くなった。58歳だった。

喉頭癌を摘出すると声が出なくなると宣告されたことから、放射線や抗癌剤での治療を選択。また、がんセンターでの現代医学的な治療計画では胃に穴を開けての流動食生活となることを余儀なくされ、これに伴い唾液腺が消滅し、唾液が出ないためステージで歌うのは困難になると言われたことから、入院後2週間で代替医療へと治療を変更したという。声を失って生きるよりも、歌い続けることを選んだのだ。
最後のオリジナルアルバムとなった『夢助』の一曲目。清志郎のヴォーカルが、力強くそして優しく唄う。
「誇り高く生きよう、喜びにあふれ」
<引用終了>

人は誰しも思いなく生きることはできません。生きるために思いを捨てることほど愚かなことはないと私は思う次第です。

<希望>

おおよそ、始まりを迎えたものの中で終わりを迎えなかったものはない。
人の命は勿論、国にしたところで同じこと。
かつて滅びの時を迎えることのなかった国は一つとしてない。
ゆえに今ある国もまた、永続することは決してない。

日本人の存在意義とは何であろうか。
他を排してまで生き残らねばならぬ理由とは何であろうか。
千年の後、果たして日本の呼び名が残っているだろうか。
我々はこの時代にいかなる種子を残せるだろうか。

限りある命なればこそ、人は永遠なるものに恋焦がれる。
目に見える世に永遠などありはしないというのに。
ただ人の生き続ける限り、その思いは受け継がれることだろう。
ならばそこにこそ、私は希望を託したい。

<日本の精神文化が世界を救う>

先ごろの国連の核廃絶を目指す決議など茶番に過ぎまい。核を持っている国々、核に頼る国々がいくら核をなくそうと叫んだところでナンセンスだからだ。核に頼らぬ外交と国防を成し遂げた国の首脳にしか核廃絶を叫ぶ資格はないことだろう。
結局、核廃絶はそれに頼らぬ個人のハートがまずありき、その延長に国が、そして世界があるのでなければ成し遂げることはできない。いかなる理屈を用いようと、核抑止の延長に核廃絶など有り得ない。

今日、世界の趨勢は一部の富める者たちの思惑に牛耳られているといってよい。核抑止論もまた、人口や資源を管理するためには核戦争すら厭わぬという企ての所産なのだ。彼らの目的は支配階級と奴隷階級とを明確化した世界統一国家の樹立にあり、それは刻々と実現に向かっている。そして何ゆえ彼らがそれを成し得ているかといえば、それはひとえに世代を超えた精神のリレーによるのである。
ならば、同じことが我々にもできないはずはない。外側が同じであっても、中身を変えてしまえばそれでよいのだ。陰謀の正体がエゴの連鎖であるなら、愛の連鎖によってそれを昇華してしまえばそれで良いのである。ワン・ワールド、大いに結構ではないだろうか。

理想社会を実現させるにあたって具体的な方法を示すとすれば、それは純度の高い日本の精神文化の産物を海外に輸出することが挙げられよう。文芸作品でも良いし、映画やアニメでも良い。「おくりびと」が海外で高い評価を得たことは記憶に新しいところだが、目下、もっとも見込みがありそうなのは、やはりアニメーション作品や漫画である。理由は子供が観るからだ。
かくいう私は昭和40年代の生まれだが、私の慣れ親しんだアニメには人類愛をテーマにした作品が多かった。私の価値観の根幹もまた、そうした作品によって少なからず影響を受けているが、この感覚を広く世界中の人々と共有できるようになれば、理想社会の実現は必ずしも不可能ではない。そして、その萌芽は既にあるのだ。

確かに、アニメ作品の傾向は時代によって変遷しており、昨今みられるものには精神汚染をうかがわせるものも多いといえる。しかし、初期の意欲作には自己犠牲をテーマにしたものも多かったのだ。正しいものに対して感じる心は万国共通であり、心に残る作品には、必ず何らかのメッセージが込められているものだ。そこに真理を見出すのは支配する側の子供たちもされる側の子供たちも何ら変わりはないことだろう。今日、良質な日本のアニメ、漫画と子供時代に接触した世代が皆、大人になって世界中に散らばっている。世界が一つとなるには幼少時代の文化的な共通基盤が必要だが、我々はその条件の一つを満たしている、あるいは満たしつつあるのではないだろうか。

核を持てる国に持つなといえる資格を持つ国は、核によらぬ外交と国防を成し遂げた国だけである。未だ力に頼る国々に、あるべき道を指し示すことができるのはそういう国をおいて他にはない。日本はいつでもその資格を得ることができるのに、未だ核の傘に守られているというまどろみの中に居て身じろぎしようとしない。
それはやはり、国民の多くに核に頼らぬ覚悟、死ぬ覚悟、生きる覚悟がないからなのだ。世界でもっとも尊い仕事をなし得るのに、それを為そうとしない国とその民に対する苛立ちが私の筆をすすめずにはおかない。
日本の歴史と精神文化の中にこそ、世界が真の平和へ歩を進めるために欠くことのできぬ道しるべが託されているのである。
パンドラの箱が開かれて飛び出したものの一つが核であったとしても、その箱の中で最後に残るもの、それが希望ではないだろうか。

<日米安保に思う>

日本の核武装を唱える理由に、北朝鮮の脅威を掲げる御仁は多い。しかし、目下、それが現実的な脅威であると納得できる根拠にお目にかかったことがない。
かの国のミサイル発射実験にしたところで、ヤクザの恫喝と大差ない瀬戸際外交のなせる業ではないかと思われてしまう。
そもそも、かの国がかろうじて生きながらえているのは、朝鮮総連を通じて日本から巨額の“支援”が行き渡っているからではないだろうか。その日本を核攻撃して彼らに利するものがあるとは到底思えない。ゆえに、どれほど多くのミサイルがわが国に向けて並べられたところで、それが本当に現実的な脅威であるかについては大いに疑問が残る。

にもかかわらず、北朝鮮の脅威があるから、自前の核を持たぬ以上、わが国は日米安保に頼らざるを得ず、対米追従を余儀なくされているという見方をする人々が日本の核武装を唱えて憚ることがないのである。だが、日米安保によって日本が自力で国を守れないという見方をするのか、それとも狡猾に米国を利用していると見るべきか、これはものの見方の問題であるかも知れない。
米ソ冷戦時代、両大国は核軍備増強にしのぎを削ることで国内経済を疲弊させていたが、それを尻目に日本が経済発展を遂げることができたのは、日本国憲法、並びに非核三原則と日米安保を盾にして防衛費を抑えることができたからではないだろうか。
これほど経済危機が叫ばれる昨今、本格的に国防に取り組む、それも核軍備を行うということにでもなれば、いくら財政を圧迫することになるのかわかったものではない。それも、使用を前提としない兵器のためである。
旧ソ連、中国、米国のいずれにおいても、核実験による自国民の被爆の悲惨な実態が明らかにされつつある。それを必要な犠牲であると割り切ってみせる論理が私には未だ理解不能である。

結局、核武装を厭わぬヤクザ国家どもと覇を競い合うには、北朝鮮と同じような政策を必要とし、挙句の果てには、この失敗国家と同じような運命をたどることになるのだ。目的のためには手段を選ばずという国策の延長に拉致事件があるのであって、日本がそのような国を真似ることに何の意義があるのだろうか。日米安保に頼らず、自前の核をもって自衛するなどと宣言すれば、各国からの経済制裁によって早晩、エネルギーは底をつき、国民は餓えの恐怖に直面せざるを得ぬことだろう。日米安保は単なる方便なのだ。それを忘れてこれに頼り、それを目的としたがゆえに、今日のわが国の窮状があるのではないだろうか。

<伝統精神と核武装>

確かに、報復に対する恐怖が戦争を抑止するという核抑止論に一定の理はあることだろう。しかし、問題はそのようにしてつくられた均衡が破られないという保障があるのかということだ。それはちょっとしたミステイクの重なりで生じる可能性があり、その場合の被害の大きさは一つの文明圏、あるいは文化圏にとって致命傷になりかねない。
核兵器が安価になれば、不特定多数のカルト集団にまで行きわたってしまうことも考えられるだろう。集団が小規模になればなるほど、核攻撃を受けた場合、報復のチャンスも少なくなってしまうので、逆に核による先制攻撃を考える組織も出現するのではないだろうか。即ち、核による自爆テロの活字を見るのも難しいことではなくなってしまうということだ。そうなれば世界が秩序を維持するのはもはや不可能である。

しかしながら、そこで核を持つ国が持つなといっても何ら説得力を持たない。ゆえに、日本の外交力の真価が問われるのだ。日本が核の傘から離脱し、世界に向けて核廃絶を唱えなければ、世界に真の平和が訪れることは決してない。自国の子供たちでなければ原爆で焼き殺される子供が他にいてもかまわないなどという理屈がまかり通ってよいはずがない。もっといえば、自分の子供でなければ核開発のために被爆する子供たちがいても構わないなどという理屈がまかり通ってよいはずがないのだ。

結局、真の平和を実現させるためには核廃絶が不可欠であると同時に、落命を恐れぬ誇り高き精神がもっとも必要とされるのである。特攻隊に志願し、竹やりで重戦車に挑もうとした我々の祖先が護ろうとしたものとは一体何だったのだろうか。それは、自己犠牲を厭わず、卑怯者になることを忌避した伝統精神に他なるまい。
伝統文化の護持をうったえる一方、その精神に反した核自衛を当然であるかのごとく主張する人々。特攻隊の精神を賛美しながら、核自衛の精神的退廃には全く無頓着な人々。命より大切なものがあるとのたまいながら、その命惜しさゆえ核抑止に平然となびく人々。その自己矛盾に無自覚な御仁が多いのは、過去の大戦に敗北したと思い込んでいる人が多いからであろう。

しかし事実は、日本精神の底力が米国をして禁断の兵器を使わしめただけの話であり、むしろ日本精神が彼ら米英精神の脆弱さをものの見事に粉砕した圧倒的勝利といえるのだ。
八方塞になったどこぞの阿呆ボクサーが試合中に相手をプロレス技で投げ飛ばしたのと、米国が核を使用したこととの間には大差がない。
にもかかわらず、投げ飛ばされたから投げ技を鍛えようなどと拳闘家の発想することが精神的退廃でなくて何だというのだろうか。

もし、大東亜戦争当時、わが国に核兵器があり、報復手段があったとして、果たして誇り高い天皇陛下は報復のために核兵器の使用をお認めになっただろうか。神が万物に愛情を注ぐがごとく臣民を治める神の代理人が、復讐のために核の使用をお許しになっただろうか。そもそも、核兵器のごとき卑劣を極める道具の開発を許可なさっただろうか。私には大いに疑問である。
今日、わが国が無力であるのは、未だ敗戦の自己暗示が解けておらず、軍事力を背景に強権発動を厭わぬヤクザ国家どもと同じ土俵の上に立っているからに他ならない。核がなくとも、国際貢献力を堂々と示して外交の力を示せば済む話なのである。核の圧力は、それを感じない相手には全く無力であるからだ。

核自衛それ自体が、特攻隊の崇高な精神と相容れないことに気づかない人々が多いのには驚かされるばかりである。今日、絶滅がもっとも危惧されるのは伝統的日本精神以外にない。核抑止に便乗すれば、間違いなくそれを加速してしまうことだろう。