眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて) -5ページ目

<エビデンスのない話(1) 医者の喜び>

医者の喜びとは患者が治ることである。即ち目の前の患者が笑顔で医者のもとを去っていくことだ。これは専門科を問わず、あるいは勤務医、開業医の別なく、何ら変わることがない。その喜びを得るため、これまで整形外科領域においても数多くの目覚しい業績があげられてきた。学術集会では幾多の有益な報告が行われてきたし、今後もそうであるだろう。それらの蓄積が整形外科の発展を通じて大勢の患者の健康に寄与することは全く疑いのないことだ。しかしながら、その集会は、あくまでメスを握る外科医の集いであり、そこで行われる報告も外科医の目線を中心としているため、そこにはいくばくかの盲点がある。

何事であれ物事には原因と結果がある。当然、病気に関しても原因と結果があり、個々の過程がある。人間の肉体は自然治癒力と呼ばれる神聖な力の働きによって病から立ち直ることができるが、その力の働きが何らかの理由で損なわれたとき、病は重症化し、医者の手助けを必要とするようになる。それが胸腹部疾患の場合、内科と外科、それぞれ専門領域が分かれてはいるものの、それは病気自体が別ものというわけではなく、それを診る病期と治療のアプローチが各々異なるだけである。同じ病気であっても、その初期であれば、内科医が適切にコントロールするだけで病は快方に向かう。そして、内科的なコントロールが困難と判断されたとき、外科医の手が必要になるだけだ。胃潰瘍という病気がその好例である。潰瘍が初期であれば内服薬による治療が可能だが、穿孔してしまえば外科医の治療が必要になるという具合だ。

この意味では、わが国の場合、整形外科医は外科医であると同時に内科医でもあるわけだ。しかし、一般病院に勤務する整形外科医は多忙を極め、外来で行われるその主な仕事は手術その他の侵襲的治療を要する症例と、そうでない症例との峻別で、専ら外科医として機能することが優先される。そのため、患者は症状の軽重で分別され、治療の対象としても、また研究の対象としても、軽症患者が切り捨てられるという現象が生まれている。開業してメスを握ることのなくなった医者こそが整形内科医といえるかもしれないが、多くの開業医は、もはや学会発表への意欲を失っており、整形内科領域を追究してのける医者は外科手術領域に比較して、はなはだ少ないのが現状である。

しかしながら、先にも述べた通り、外科医の扱う病と内科医の扱うそれとの違いは病期の違いだけである。つまり、軽症患者の訴えの中にこそ、病状の主たる要因が潜んでいるのであり、そこで適切な治療を施すことができさえすれば、多くの患者は侵襲的治療である手術を必要とせずに済むのである。外科医の本能として、治療が手術中心に傾くのは仕方のないことであるとしても、患者本人は誰であれ、はじめから手術を希望しているわけではない。手術以外の治療に絶望せざるを得ないから手術を選択するだけの話である。ところが、軽症患者が軽んぜられた結果、整形外科領域は、起こってしまった結果の評価方法と、その治療に関しては発展を遂げたが、原因に関する考察においては放置されてしまった感が否めない。ゆえに、侵襲的治療にいたる以前の慢性疾患患者を救うことができないばかりか、患者の「何故そうなったか」という疑問に対しても、せいぜい、歳のせいだとか、使い過ぎだとかいった、まことに非科学的な説明でお茶を濁すことしかできず、余り深くは顧みられないのである。

実際、外来における軽症患者の原因は、よくわからないことが多い。その最たるものが外反母趾だ。ありふれているにもかかわらず、はっきりとした原因を示すことができない。正書には先細りの靴を履くことが原因であるかのごとく記載されているが、実際には靴を変えてみても病状の進行を止められない場合が多い。手術までは必要でないが、さりとて病状が進行しつつあるのは間違いない症例に対し、専門家であるはずの整形外科医が本当に有用な助言を行うことができずにいるのである。

さて、西洋からもたらされた科学においては、その見解がどのようであれ相応のエビデンスが求められる。エビデンスとは科学的根拠であり、しかるべき手続きを踏襲した上でもたらされた学術報告である。そこに要求されるのは客観性であり、統計学的なデータである。ところが、統計には作為的な要素の入り込む余地もはなはだ多く、結論に関しては妥当性を欠く場合も少なくない。実際、科学のもたらす見解は、よくよく見れば、五年十年を待つことなくコロコロとその主張を変えており、エビデンスがあるからといって、その見解が真実であるとも限らないし、エビデンスがないからといって、その見解が間違っているという証にもならない。
ここでは、これまで顧みられることの乏しかった整形“内科”領域の代表的な慢性疾患に関する病因について、エビデンスには乏しくとも、町医者の素朴な実感に基づいた得手勝手な考察を試みることにする。それが医者の喜びに寄与することを期待しつつ。

<真理の行方>

旧約、新約ともに、開祖の教えを正確に伝えることには失敗しているといえるだろう。コーランにしても同じことである。その時々の世情により、教えは伝える者によって歪められてきたからだ。
しかし、ハートで神をとらえる者にとって、新約の神にせよ、旧約の神にせよ、あるいはイスラムの神にせよ、そこに普遍的な慈愛の神を見出すのは難しいことではない。聖賢たちの教えが混乱しているように見えるのは、彼らが混乱しているからではなく、その教えを受け止める側の混乱によるのではないだろうか。
聖者の教えは、もとを正せばいずれも口伝であり、伝える者たちの意識をくぐる段階で変容を余儀なくされてしまうのである。ゆえに、頭でこれを理解しようとすれば、衆生の混迷を見出すことになるだけだ。

因果応報も同じ事で、理性の営み、知力の働きで因果律を解き明かすことは単純にいって不可能なのである。それは知性に限界があるからだ。
しかしながら、人には知性のみならず感性があり、この働きに負う高次の認識を悟性と呼ぶなら、悟性によってのみ、因果律をたどることが可能となる。さすればそれを観察者の錯覚であるだとか思い込みであるだとかいう結論には達し得ない。ただ、理性に限界があるのと同じように、悟性にもまた限界がある。当然、過ちもあり得るだろう。ゆえに、真理を追究する者には何より謙虚であることが必要とされるのではないだろうか。

神が無限の愛、慈愛そのものであるというなら、何ゆえ衆生には悪徳と暴力がはびこり、善男善女がもだえ苦しまねばならないのかと人は問う。何もせぬ神は無慈悲ではないかと。しかし、己が苦しみを奥深くたどれば、そこにあるものこそ、錯覚に過ぎないのではないだろうか。諸々の苦しみ、悲しみは、我々が有限の存在であることに由来する。有限なものを失うことで苦しみや悲しみが生まれるからだ。しかし、他ならぬ我々自身が神の化身であり、無限存在たる己の素性を忘れてこの有限の世界に戯れる神であると悟るならば、その苦しみ、悲しみを退けることができるだろう。

無限にして唯一の神が“存在する”ためには、それを認識する客体として神を想う有限存在が不可欠なのだ。苦しみ、悲しみはこの有限なものを失うという感覚の延長にある幻に過ぎない。不安もまた同じである。ゆえに、目に見える肉体を失う死によって無限存在に回帰することが救いとなるのだ。不生不滅、死なば皆仏とはそういうことではないだろうか。
かつてイエスが自ら十字架を背負い、目に見える命を犠牲にしてまで人々に示してみせたものの本質がそこにある。彼の教えの骨子は、人の本質がその霊性にあり、無限の存在であるということに他なるまい。
神がどこにあるかと問われるなら、私は各々のハートを指すのみだ。そこにある慈悲の心、慈愛の心が神であると。

<神の恩寵と因果応報>

多くの善男善女が、これほど多くの苦しむ人々、非業の死を遂げる無念の人々を前にしながら、どうして神は何もしてくれないのかと無邪気に尋ねる。

しかしながら、現実の世に起こるあらゆる出来事に偶然はないと私は思う。全てに原因があり、そしてその原因にふさわしい結果が待ち受けるのではないだろうか。それが因果応報である。因果応報の存在もまた神の存在と同じく、それを感じるしか認識の手立てがない。しかし、あると実感する者にとってはまぎれもない真実なのである。

因果応報は、この世界の壮大なドラマを創り出すのに欠かせぬ法則であり、これを安易にくつがえすならば、世界はその存在意義を失ってしまうことになりはしないだろうか。神が何もしないようにみえるのはその故である。
我々の目の前で起こるあらゆる事象は、常に原因を伴う。そして、その結果もまた、それを受け取るにふさわしい人が、完璧なタイミングで受け取ることになるのだと私は思う。

しかし、そうした因果応報の法則を覆すことができるのも、やはり神をおいて他にはないことだろう。それは神に帰依する者の純粋な祈りによって行われる奇蹟である。人の手によって最善が尽くされた上で聖なる祈りが捧げられたならば、神の恩寵により、願いは聞き届けられることだろう。そして、その成就は我々の霊的進化に深く関わってくるに違いないのである。

<無限存在と輪廻転生>

10カラットのダイヤも100カラットのダイヤも、炭素の塊であることに変わりがないのと同じように、苦しみ、悲しみにどれほど高値を付けてみたところで、それらが有限なものを失うところから派生した幻であることに変わりはない。なぜ幻であるかといえば、それは我々の本質が輪廻転生を繰り返す無限存在であるからだ。

我々は苦しみ、悲しみ、憎しみ、喜び、その他諸々、感情の全てを味わいつくすために幾度と無く生まれ出でていることだろう。それが輪廻転生の思想である。ならば、既にその味を十分に知りえた人生は選択されることがないに違いあるまい。多くの人が本能的に殺人を忌避するのはその故である。殺しの味、そしてその結果としての殺される味を既に知り尽くしているからだ。また、こうした思想は何も仏教に限った話ではなく、ニケーア公会議以前に伝わるイエスの教えには、因果応報、輪廻転生を肯定する思想が含まれていた可能性を示唆する報告もあり、広く普遍性を有すると私は思う。

我われが本質的に無限であるというならば、人類にどれほど冷酷で残虐な歴史があったとしても、それは神の栄光を汚すものではあり得ない。なぜならそれは押しなべて人の獣性がもたらした帰結に過ぎないからだ。ゆえに、それをもって神の慈愛を否定することなどできはしない。神の御心が我儘なのではなく、それは人の気まぐれ、身勝手の表出に過ぎないからだ。この世界のあらゆるドラマには、神の恩寵が奇蹟となって煌く瞬間を除き、ただ原因と結果があるのみだ。

そもそも、人とは、“獣性と神性とを併せ持ち、神にいたる途上にある何者か”なのだから、慈悲の心を著しく欠いた獣のごとき輩が存在しても何ら不思議なことではないのである。我々自身が獣の言説に惑わされることなく、ただ神への道を粛々と歩めばそれで良いのではないだろうか。
殺戮の歴史は、人の獣性がつむぎだした結果に過ぎない。しかしながら、何もしてくれぬ神に呪詛のコトバをはき捨てる人々は後を絶たない。けれども、そうした発想は単純に神と己を分かつ分離感に由来しているに過ぎず、己がハートの外側に神を見出そうとすればこそ、神の不在を確認せざるを得なくなるというだけの話なのだ。

したがって、人類の歴史において、神には何の責任もありはしないことだろう。同じように、霊的存在としての我々にもまた、何の責任もありはしない。有限の世界における諸々のドラマは神が己の何たるかを知るための遊戯に過ぎないからだ。霊的無限存在として、我々は完璧に平等であり、自由である。我々は己の何たるかを知る途上にある神そのものであるという意味だ。さすれば霊的存在として、我々はあるがままで良いといえるだろう。慈愛の神など信じぬ、輪廻も因果も信じぬというのであれば、それはそれで良いのである。

何を信じて生きるかは、己がどのように人生を納得させるのかという単純な問題に還元されることだろう。その獣性をむき出しにせざるを得なかったキリスト教徒たちもそうだが、己が信じるところに従って生きればそれで良いのだ。そして、そのような人々がつむぐ歴史を見て、後世の人々は何が間違っていたのかを悟るだけの話ではないだろうか。人は誰しも己の信じたものにふさわしい幻をこの有限の世界で味わう定めにあることだろう。

制限がないとき、人は怠惰とならざるを得ない生き物である。ゆえに、我々は限りある時間の中で生きるのではないだろうか。過去世の記憶がないのはそのゆえである。あるのはただ漠然とした生きる傾向、いわば魂の習慣で、それをカルマと呼ぶ人もいる。実人生においてはこのカルマと向き合い、粛々とその一つひとつを清算、克服して行く営みこそが人生であると私は納得している。人生とは味わいに他ならぬと。

<神はハートにあり>

神という呼び名を目にすると、これを「理解」するために多くの人はあれこれと既存の知識をたどろうとする。つまり、己の外側に神を見出そうとするわけだ。けれども、ハートのスイッチを切った学者や思想家、あるいはその真似をする者たちがいかに頭をひねってみたところで神にたどり着けるはずもなく、往々にして“神は人間が方便としてつくり出した概念に過ぎないもの”という結論に達してしまう。こうなると、ほとんどの探究者は伝えられる概念の相違点ばかりが気になって、神の普遍性に思いが及ばなくなってしまうようだ。

一方、今ある秩序、全宇宙の存在原因として、あってあるもの、我々一人ひとりの意識の奥深くに内在し、理性の営みの外にある普遍の無限存在として神をとらえれば、神とは、ハートで感じ、味わうものであるということになる。
もし、そうであるならば、宗教を掘り下げる行為もそうだが、文献に神をたどるのは不毛であるということになるだろう。探す場所を誤っていたのでは神にたどり着けるわけがないからだ。

実のところ、ヨーガや密教に伝わる特殊なテクニックを用いて瞑想し、意識の深い領域に達すると、一時的にせよ人は神の意識との一体化を経験できるようだ。そのような経験を持つ人間にとって、神は人間のつくりだした概念であるだとか方便であるだとかの理屈はまるで意味をなさなくなってしまう。神は我々一人ひとりの内側にあるのであって、それを己の外側に見出そうとするのは、己にかけた眼鏡を探す愚挙に等しいというわけだ。

往々にして、人間は困るまでは神を必要としない生き物である。ゆえに、神はその子らを己に近づけさせるために困らせるのではないだろうか。あるいは、人が神に近づくために困った状況を自ら演出するともいえるだろう。人が己の存在意義について深く省察するのは困ったときをおいて他にはないからだ。それは、人が神にいたるためのきっかけに過ぎまい。我々の人生は、我々自身の手によって遠い過去にグランドデザインを終えているという意味である。

人間はいつも矛盾を抱えて苦しむ生き物ではないだろうか。だから、“獣と神との間にある何者か”なのである。あるべき姿と今ある現実との間にある矛盾を忘れぬ限り、その矛盾に苦悩する限り、人は獣に落ちることから免れ得ることだろう。

<エゴの統御とあるべき姿>

利己心というエゴは、生命の本質的な衝動であり、これを完全に排除してしまおうとするなら、死ぬしかない。食欲ですら、別の命の犠牲を強いることなしにそれを満たすことはできない。生きるということそれ自体がエゴの主張に他ならず、エゴの否定は生命性の否定につながるのだ。従って、エゴは排除するものでなく、これを統べるものであると私は思う。

乳飲み子は自身の欲求を通すだけが仕事である。それは生きるために必要なエゴの主張であり、そうした原始的な欲求を抑え付ける必要は全くない。したがって、親はひたすら子の欲求に応えるだけであり、子はエゴの解放によってもたらされる快の感覚を体験する。
しかしながら、乳児から幼児になるに従い、徐々に親は子のわがままを戒めて欲求を抑制する術を教え、あるべき姿に躾ようとする。ここで初めて、子供たちは自己の欲求を抑制する術を学ぶのだ。
その後、子供たちは自我の目覚めとともに、反抗期を迎えて再び欲望を追求しはじめ、親のいうことをきかなくなってしまう。そうして自分で物事を選択し、その結果を受け取ることで、欲求の抑圧と解放のバランスを習得するのである。これが、エゴの統御のもっともプリミティブな形である。

躾られていない子供はエゴを抑制することができず、エゴを統べることができない。一方、乳児期に不自然な形でエゴの抑制を強要されたり、思春期に自我を主張してエゴを解放する術を知らない子供もまた、エゴを抑えつけるばかりでエゴを統べることができない。どちらも大人になってから己のエゴに振り回されて困ってしまうことだろう。
人は、エゴの解放と抑制を交互に学びつつ、エゴの統御を会得するのである。

核は、人のもつ獣性の権化、究極のエゴの物質化である。ゆえに、人として生きるならば、これを統べて生きねばならぬことだろう。核との共存を謳う人々がいるのもこのゆえであるのは間違いない。
だが、我々の目指すあるべき姿はやはり神にあるのではないだろうか。そして核との決別、核に頼らぬ選択こそが我々を人から神へと導くことになるのだと私は思う。
神々の世代をいざなうため、その捨石になる勇気が我々に求められているのだと。
人類全体の進化、神化はすぐそこにあるのだ。
古より預言された神の御国、神々の時代の到来は近い。

<政策>

企業は経済組織体であり、業績が悪化してくれば何らかの対策を講じねばならない。全ての仕事関係者を身内と考える日本型企業では終身雇用が根付いており、不況時にもこれを守ろうとする力学が働く一方、従業員を敵とみなす米国型の労働観ではすぐに雇用調整が行われる。雇用を守るなら賃金カットだ。雇用を守らないということなら非正規社員の解雇からはじめなければなるまい。それをしなければ正社員を守れないからだ。
つまり、日本において、派遣社員の採用はいわば正社員のための安全弁確保を目的として行われているわけである。

派遣業の拡大は、米国による内政干渉の結果である。つまり、米国型の労働観が移植されようとしたわけだ。そして、これがそれなりに馴染んでしまったのは、わが国の国民に“自分勝手”が蔓延しはじめていたからだろう。
派遣業を狭めることなく一律に労働者の生活を守ろうとするなら最低賃金の引き上げが必要だが、賃金に関わる規制が厳しくなってくれば企業は雇用を守れなくなってしまう恐れがある。
一方、再び派遣業に規制をかけようとすれば、今現在派遣で働く人々の就職口を狭めてしまうことになるので、失業者をさらに増やしてしまうことになりかねない。それは同時に正社員の終身雇用をも脅かすことにつながるだろう。
となれば、当面、政治による介入としては派遣社員から正規雇用へのシフトを積極的に促す政策を施すぐらいしかできまい。

もっとも、その政策の恩恵を受ける資格があるのは、正社員として長く同じ仕事をしたいという強い思いを持続できる人材だけだと私は思う。

<教育>

誤解を招かぬために加えるならば、私のいう安易に職をかえる人々とは、職を変えざるを得なかった人々のことを指すのでは決してない。職を変えざるを得ない場合は仕方のないことだ。けれども、同じことが何度も繰り返されるというのであれば、それは職を選択する側にも問題があるといわねばなるまい。失職は交通事故のようなものかもしれないが、それに何度も遭遇する人々にはそれなりの原因があるものだ。

本当に不運から失職してしまった場合、即座に派遣でしか働けないということにはなりにくいのではないだろうか。前職でのキャリアに価値を見出す会社があれば再就職は難しいことではないからだ。経営者側にしてみれば、そういう人々は新たに投資する必要がない即戦力なのである。しかし、そのようなことを何度も繰り返していれば、やはり派遣でしか働けなくなってしまうことだろう。20代はその若さこそが財産であり、セールスポイントとして就職の可能性があるだろうが、そこで過ごす10年の間にキャリアを積んで己の価値を高めておかねば、30代で新たな仕事を見つけるのは難しくなってくるだろう。40代、50代ともなればなおさらだ。本物のキャリアを積むことは、二年や三年でころころと自分本位に職を変える人々には無理な相談なのだ。自分の価値を高め、これを保っておくには、やはり一つの職場に長く勤めるのが一番である。

自分本位にころころと職を変える労働者、次々と情け容赦なく社員をリストラする経営者、その両方が問題なのだ。ただ、社会全体がジリ貧である以上、それも生き残るためだといわれれば、責めてばかりもいられないのかもしれない。ゆえに、雇用を生み出す産業の創出と新たなエネルギー資源の開発が必要とされるのである。働ける職種が少ないという状況なら、むしろ少子化は望ましいことではないだろうか。就職時の競争率は低下するし、人口減につながれば食糧自給率は向上するのである。

立場上、私には20代、30代の方々の履歴書を拝見する機会が少なからずあるが、そこからみえてくるのが自分本位の若者たちだ。納得できる職歴を持参する若者は実に少なく、二十歳そこそこでありながら、職歴が記入欄の隅から隅まで、実に誇らしく書き込まれてあることもしばしばだ。また、就職に際してほとんど思慮なく、最初から派遣社員を選択した御仁も決して少なくはない。その一方、自分本位に転職を繰り返し、30代を迎え、唯一のセールスポイントである若さを遣い尽くして派遣に入らざるを得なくなった者もいる。彼らの多くは定職を選ぶ勇気がなく、そもそも何かになろうという明確な目標がなく社会人となる日を迎えてしまった人たちである。

こうした人々に共通しているのが、長期的なビジョンの欠落だ。現在の状況を今後十年続ければどうなるかという認識がうまくできず、よくてせいぜい2、3年先のビジョンしか持ち合わせがない。行き先不明、ゆえに職歴も一貫性がない。根無し草ゆえに最後は派遣会社という名のブラックホールに吸い込まれてしまうのである。
このような若者を増やしている原因はやはり、努力せずして結果の平等が保障されるかのごとき幻想を植え付けるサヨク教育にあるのは間違いない。しかし、もっとも悪い影響を与えているのは、今日の日本プロ野球、そしてメジャーリーグだろう。企業本意に選手のクビを切り、機械部品のごとく選手を交換する一方、選手もまた育ててもらった恩を顧みず、権利の行使とばかり自分本位に他球団にわたって行く。米国型の労働観がそのまま移植された日本プロ野球は、それ自体が、日本企業の退廃ぶりを如実に表しているといってよい。そして、こうしたありようが利己的なる社会を形成して行くのに大役を果たすのだ。


かくのごとき米国型の労働観からの脱却を果たすためにはまず、各自がそれを自覚するとともに、企業自らが襟を正し、社会のあらゆる局面でなされる再教育、啓蒙の成される必要があることだろう。



<ビジョン>

派遣業とは他人の儲けを掠め取る奴隷産業である。これを合法化してしまったことが問題には違いないが、では、何ゆえそれが急速に日本社会を席捲してしまったのかを考えねばなるまい。
転職は労働者にとって当然の権利であると誰もが考えている。しかし、多くの経営者にとって、即戦力にならない新規採用者に支払う賃金は労働の対価ではなく、将来への投資なのだ。ところが、ころころと職を変える労働者はそのような経営者の思惑などまるで意に介すことなく、経営者がやっと投資を回収できるという段になって自分本位に辞めてしまう。にもかかわらず、そういう人々を雇ってしまったために経営者が被る損害を誰も補填してはくれない。

ゆえに、転職を繰り返す人間には徐々に就職のチャンスが狭まり、派遣の罠が待ち受けるというペナルティーがあってもよいと考える人々もいるのである。企業によるリストラばかりが非難されて労働者側の勤続姿勢が問われないのではアンフェアだからだ。結局のところ、経営者、労働者双方の利己的な風潮が高まる中、そこに派遣業の入り込む隙があったといえるのだろう。従って、もっとも戒めるべきは個々の利己主義化なのである。派遣業を悪玉にみたてて潰せばそれで済むという単純な話ではない。

十年単位、二十年単位のビジョンを持って行動する人間にとって、辛抱すべきものが何であるかを見誤ることはまずない。そして、自分の居場所は時間をかけてつくりだすものであって、居場所を変えたからといって即座に自分が特別になるわけではないことを知っているので、安易に職を選んだり、それを変えてしまうこともまずない。変えることがあるとすれば、それは既に10年、20年前から計画されて行われることになるだろう。
しかし、目先の利益ばかり追いかけることに血眼で、将来に確たるビジョンを持たぬ人間は、何に耐えるべきかを知らず、少しでも不満があれば職を変え、居場所を求めて彷徨し続ける。けれども、そのように利己的な人々が、最終的に派遣業に行き着くのは半ば必然なのだ。

一方、目先の利益追求に血眼な会社ほど派遣社員を多く雇うことになるだろう。そこには人を愛し、育て、これを守るという意識などない。だからこそ、切りやすい人材として派遣社員を用いるわけである。結局、利己的な者どうしが磁力で引き合うかのごとく集うことになるのだ。それはまさに類は友を呼ぶであり、その結末は自業自得であるといえるのかも知れない。

確かに、派遣社員になった、あるいは、ならざるを得なかった理由は人それぞれだ。しかし、長期的なビジョンを持ち、何に耐えるべきかを知っており、義理人情に厚い人生を歩む人間ほど、そうした罠からもっとも縁遠くなるのではないだろうか。育ててもらった会社に奉公して恩を返すという気持ち、会社のために働いてくれた労働者の恩に報いるという気持ちは、いずれも数十年をまたがなければ形に変えることはできぬことだろう。


<天は自ら助くる者を助く>

確かに、今現在派遣社員をしている者にとって派遣業の問題は死活問題だろうが、派遣業といっても日本社会の体質に馴染まなければいずれは消え行くもの、あるいは自然縮小するものである。ゆえに、日本の伝統文化に則った社会の体質改善こそ急務ではないだろうか。そもそも、派遣で食べているオレ様の結婚を誰かなんとかしてくれというのではお話にならないし、派遣社員は結婚できなくてかわいそうだからなんとかしてあげなければというお話ならそんな偽善につきあう気など小生にはない。

自己責任というコトバを安易に使いたくはないが、自分の人生に対する責任感に乏しい者ほど、何でもヒトのせいにし、そのくせ何でもヒトに頼りたがるものだ。そのことを自覚しない限り、何とかなるものでも何ともならぬことだろう。
天は自ら助くる者を助くである。自らを救うために努力を惜しまぬ人だけが救われる機会を得るのだ。社会制度もそのようでなくてはなるまい。私の知る限り、本当に努力している人間は簡単に“努力の限界”などというコトバは使わない。

だから、「誰か何とかしてくれ」ではお話にならないのだ。正しくは、「何とかしなければ」である。派遣労働者が可愛そうだから何とかしてあげようと思う奇特な御仁は自らが稼いだお金でその人たちを食べさせてあげればよいだけだ。勿論、私はまっぴらごめんである。そんなことをしてもきりがないからだ。ゆえに、派遣労働者が“可愛そう”だから何とかしなければならないのではない。治安の悪化をはじめとする社会不安の増大と最終的な国力低下が問題なのだ。

なぜ派遣で働かねばならなくなったのか。現状に至ったのには理由があるはずだ。原因分析を怠って現状の不満だけを述べ立てるのでは進歩がない。派遣で働かざるを得なくなったのには個々の事例に相応な理由があるはずだ。そしてそこに一切、自己責任の存在しない者などいはしない。何かの理由が必ずある。それを踏まえた後、10年先を見据えて戦略を練り、それを達成するために最低限必要な短期的目標を設定し、これに全力を傾ける。人生とはその繰り返しではないだろうか。

同じ能力を持った人間であっても、そのようにして30年、40年を生きた人間と、行き当たりばったり、出たとこ勝負で暮らしてきた人間の人生が同じであるはずがない。それが同じであったなら、それこそ不平等というものだ。ゆえに、賢い人間なら組合運動に参加してエネルギーを浪費するより、まずは自分自身を変えることにエネルギーを使うだろう。その方が圧倒的に楽というものではないだろうか。