眠れぬ夜に思うこと(人と命の根源をたずねて) -39ページ目

No.16<神の復権>

近年、礼節が廃れてきた。人々の間で愛が力を失ってきたことと無縁ではない。
そもそも、礼節とは他者への尊敬心なくしてあり得ない。では、他者への尊敬心とはどこからくるものなのだろうか。

人を愛するということ、それは思いやりであり、赦しであり、あらゆる人格のうちに神性を見出すということであると私は考えている。
一方、神などという言葉を使えば、少なからず、とまどいと拒絶反応を示す方がいらっしゃる。神といえば宗教。宗教といえば狂信であり、思い込みであるという短絡思考がそこにある。
しかし、神を語ることは、本当に宗教や思い込みに過ぎないのだろうか。

神が存在するか否か。それは神を感じることができるか否であろうと思われる。
確かに、我々の意識の外側に神の存在を仮定するなら、それを感じることは極めて困難だ。我々の意識の外側にあって、願いを叶えたり、罰を与えたりする神の存在を感じることは、私にはできない。そういう意味で、私は不可知論を支持する。だが、意識の内側であれば、私はそれを感じることができると思っている。
老いたり、病んだりすることによって身動き一つままならなくなった方々を介護するその手の尊さに神を感じる。
窮地に陥った私に差しのべられる誰かの救いの手に神を感じる。
私の飢えと渇きを癒すあらゆる存在に神を感じることができる。
こうして考えれば、森羅万象の全てに神を感じることも不可能ではないと私は思う。
故に、神の不在を嘆く様は、かけた眼鏡の所在を探す愚挙に等しいということができよう。

人間は、生命の本質たる利己心を抱えながら、それをよく従えて、人の本質たる神性を実現させるために存在しているのだと私は信じている。
人の本質とは、見た目の生命現象を超えて尊い存在であるという認識だ。
我々が、誰かや何かに神性を感じるのと同じように、我々自身も、この世の誰かや何かにとって神であろうと努力することが大切なのだ。
それが互いに愛し合うということなのではあるまいか。
故に、神と愛は同義であり、愛の復権とは、即ち神の復権であり、それこそが人々の意識に礼節を蘇らせるのではなかろうか。

N0.15<愛の復権>

公立の小学校が荒れているらしい。私が小学生の頃、すでに学級崩壊は起こり始めていたから、今の惨状は容易に想像がつく。
その原因に親の教育をあげ、地域性による場合があることを説明なさっておられる方がいらっしゃった。これも一つの事実には違いあるまい。

人と会う仕事をしていると、最近の親の言葉の乱れぶり、無礼ぶりにはほとほと感心させられる。
それでも、学校教育がしっかりしていれば、子供が親をたしなめることもあるのかも知れないが、今の学校教育にそれを期待するのは酷かもしれない。
学校は責任を親に転嫁し、親は学校にそれを転嫁する。一体誰が、あるいは何が教育に責任を負うのだろうか。今の親や教師たち、彼らにこそ教師が必要だ。
しかし、現状で、教育界の悪循環はおさまりそうにない。どうしてこんなことになってしまったのか。

私達の親の世代、当面の問題は飢えと貧困だったそうだ。中流の暮らしを実現させたいという強い思いが、物質的繁栄を追求させてきたのだろう。
その傍らで、心の豊かさは後回しにされてきた。結果、現代の社会は手痛いしっぺがえしを食らうことになったのではあるまいか。

ゆとり教育、その真の狙いは、社会の二極化、エリート育成と被支配者の大量生産にあったときく。全くもって愛のない政策だ。
現代の世相には、自分さえよければいいというエゴが節度を失って渦巻いている。そこにあるのは冷え切った愛の姿。
一人ひとりが己のエゴと向き合い、愛を取り戻し、そして家族、ひいては社会へと愛の復権を実現させねば未来は暗い。
特効薬はないのだという気がする。

No.14<競技の心得>

我々は、勝負に際し、勝つことを望む。そして、その思いが強ければ強いほど、己の足腰を重くさせてしまう場合がある。負けたくないという強い思いが、敗北に対する恐怖感を育て、その一挙手一投足に硬さとなって現れる。この恐怖感の大きさは、勝ちたいという欲望、即ちエゴの大きさに比例する。

他方、勝利に対する強固な希求は、ルールを犯させたり、マナーを失わせたりする原因ともなる。
また、勝ちに執着すればするほど、競技中に、ささいなことが怒りに転ずる。
怒りとはエゴの一側面である。
なぜなら、怒りの前には、期待があり、この期待が裏切られたことで怒りが生じているからだ。けれども、他者や自分にその期待を押し付ける行為はエゴに他ならない。
故に、怒りもエゴなのだ。
怒りによって冷静さを欠けば、勝利は遠のくことだろう。

勝利への強い希求が、エゴのネガティブな側面となって競技中の我々を苦しめる。エゴの大きさに比例して、その苦悩は大きくなる。
勝利とは、これらエゴの多様な側面を御さない限り、得ることはできないように思われる。

他方、この勝利への願望が強くなければ、また、勝利は得られまい。
なぜなら、勝利への強い欲求なくしては日々の研鑽に耐えられないからだ。
勝ちたいというエゴの強さが、日々の鍛錬に耐えさせ、その競技能力を決するように思われる。
日々の修練は、エゴと理性をともに育んでいるのだ。

従って、執着や欲望、エゴそのものは悪ではない。その存在によって、己を高め、競技というパフォーマンスによって、育まれた強大なエゴを御してこそ、勝利を手中に納め得るのだ。

結局、人生も同じことであろう。育まれたエゴとの戦いなのだ。
これを統べる営みの自己表現こそ、人の生きる目的なのではなかろうか。
故に、何かに執着することは、人生を極め得る絶好の機会といえよう。

No.13<競技と勝利>

物事の勝ち負けを争う競技に携わることに関しては、長年、疑問を感じていた。
そこにいかなる情熱を傾けたところで、競技自体は、所詮、エゴのせめぎあいに過ぎないと認識しているからだ。
つまり、勝ちたいというエゴ。自分が一番でありたいというエゴの表現に過ぎないと思うからだ。

エゴとは生命の本質である。その証拠にDNAは自己保身と自己増殖を第一義としている。
一方、人は己のエゴを優先させると他者と共存不能に陥り、自滅するというジレンマを抱えている。それ故、人は生命の本質たるエゴに逆らって生きることを余儀なくされている存在だ。人の肉体に宿った精神は、この高次機能が発達しているため、抱えた矛盾も大きい。けれども、そうしたエゴを統べる人の試みこそ、尊い行為なのだと私は思う。これぞ神の行為であると。
であるなら、人とは、この生命の本質たるエゴを抱え、人の本質たる神を自己表現するよう定められた存在なのではあるまいか。
このように考えるとき、競技に携わる意義がみえてくる。

人が、己のエゴを統べる行為を示すことが生きる目的なら、そのエゴを御すには神の視点たる理性が必要だ。そして、抱えたエゴが大きければ大きい程、要求される理性、いわば神の力も大きくなる。優勝したいなどという欲望は、とてつもなく大きなエゴに他なるまい。しかし、それを表現するためには偉大な理性が必要となる。この神の力を得ようと研鑽を重ねる行為こそ、努力であり、創意工夫であり、理性を育む行為である。トレーニングを己に課す行為は、肉体の持つ「休みたい、楽をしたい」というエゴを統べる行為につながるからだ。
競技者が求道者としての側面を持つのはそのためであろう。

勝利とは、エゴのせめぎあいに与えられた、つかの間のご褒美にすぎない。されど、そこに打ち込むことは、人の生きる目的に適うのだ。肝心なのは、いかなる競技にも、守るべきルールがあるということ。節度を失えば、たちまちエゴはその邪悪な側面を我々に垣間見せることであろう。殺人も、戦争も、節度を失ったエゴの形に他ならない。

勝利に必要な条件。それは相手を倒したい、負けたくないという強いエゴを統べる高度な理性の働きにある。勝利とは、己のエゴを御し得た証であると私は思う。
トップアスリートに見る神々しさは、巨大なるエゴを御し得た存在であることに由来するのではあるまいか。

No.12<競技における勝敗の意味>

[教育者は、競技をいかように捉えているのだろうか。現場の混迷を鑑みれば、そこには競技に関する認識不足がありそうだ。]

負けに不思議の負けなし。敗北にこそ、学び、得るものは大きい。また、競技に携わるにあたり、何を目的にするのかという問題でもある。例えば、学校教育の一環としてなら、必ずしも勝つ必要はない。
勝負にいたる過程、例えば友情、調和、努力、創意工夫など、得るものは少なくない。
敗北によって、敗者の気持ちを学ぶことも大切なはずだ。
勝負を競う行為は、所詮、エゴのせめぎあいにすぎない。重要なのは過程と結果から得る学びにあると思われる。

私の知るある学校では、運動会のリレーに際し、50メートル走のタイムをあらかじめ計っておき、その総和に応じてハンデを設けるのだそうだ。
これなどは愚行の極みである。
確かに、少人数で行われるレクリエーションとしての競技なら、ある程度、各チームの力が均等になるよう配慮することも必要かもしれない。しかし、余程の身体的ハンデを背負っている子供がいる場合は除いても、多人数が参加するリレー種目でこうしたことを行うのは、いかがなものだろうか。
実社会においては、平等な条件で戦える場面の方が圧倒的に少ないのだ。ハンデを背負っているなら、勝つための創意工夫を行うことこそ肝要なはず。先にも述べたが、勝つことそれ自体に、どれほどの意味があるといえようか。勝利とは、所詮、つかの間のご褒美にすぎない。

勝つことに異常な執着を見せる教育者も時折目にするが、そこに何の目的があるといえるのか。コーチや監督として、自分自身の名誉のためであったりすることも少なくないように思われる。
自分のエゴに冷徹な監視者でいられる教師が必要とされているのではなかろうか。

また、負けつづける子供が自信をなくすから、教師が采配をふるうべきという意見がある。果たしてそうだろうか。
競争そのものは、学業やかけっこに限ったことではないはずだ。
学校の先生に少なからず見受けられる傾向なのだが、子供達に敗北感を味わわせることに過敏であるということがあげられよう。
負け続ける種目があっても良いはずだ。誰もがK1の選手になれるわけでもなければ、東大に入れるわけでもない。
教師は、ともすれば競争のフィールドを狭い世界に限定して考える傾向があるようだ。
もっと視野をひろげ、負け続ける子供が勝てるフィールドに目を向けさせて自信を促すという考え方ができないものなのだろうか。
それが、多様な個性を尊重するという行為につながるはずだ。

負けつづけることに弊害があるという一方、勝ちつづけることに弊害はないのだろうか。
親や教師が自信をもって世に送り出したはずの英才が、ささいな挫折で再起不能に陥る様をみることしばしばである。
そうした原因はどこにあるのか。
子供に敗北を味わわせまいとする親や教師の姿勢は、愛ではなく、エゴにすぎない。

子供は、負けつづける引き出し、勝ちつづける引き出し、勝ったり負けたりする引き出し、その他、勝敗にかかわらぬ多様な引き出しがあって、はじめてバランスのとれた大人に育つのではなかろうか。
今の教育界のありようは、そうした引き出しの一つ一つに、鍵をかけて回っているだけのように私には見える。

No.11<現代教育と資本主義>

資本主義と現代教育の実態との間には、密接な関係があろう。
資本主義の抱える弊害が、現代教育に目的を見失った競争のための競争をもたらして悪影響を与えてきたという指摘もある。これは、ゆとり教育を生み出した理由の一つといえるかもしれない。
しかしながら、世界の実情を鑑みれば、社会主義が良いというわけでもあるまい。
では、競争原理に基づいた資本主義体制下の教育には、どういう形が相応しいのだろうか。

個々の存在が、己のエゴと抜かりなく向き合って生きる目的を見失わずにいられるなら、資本主義にせよ、社会主義にせよ、どちらも効果的に機能する主義思想なのではなかろうか。
しかしながら、我々のエゴはとても強く、それを上手く物質的な繁栄へともっていくのには、資本主義の方が、より相性が良いというだけのことである。

個々の存在が強固な利己的存在としてあり続ける以上、そこに馴染む体制は資本主義である。教育のありようは、競争原理と矛盾すべきではないのではなかろうか。
我々が抱える現状を無視して、体制の転換のみを局所的に推進しようとしても、失敗するのは目に見えていることだろう。

一方、もし、社会主義に可能性の芽があるとすれば、それは個々の本質が霊的存在であるという自覚を得、唯物論を排した社会にのみ実現可能な、原始共産体制とでもいうべきシステムであり、唯物史観に則ったマルキシズムとは異なるものであるだろう。

マルクスは唯物史観によって人の霊性を否定し、人の価値を経済活動を営む社会の部品、エゴの下僕におとしめることで、上下に二極分化した社会構造という虚構概念を論じてみせたが、これこそ大きな誤りである。
我々の本質は霊的に皆等しい神のあらわれであるため、下部構造が規定するのは上部構造ではなく、全体構造であるからだ。

我々が資本主義という競争社会の中にあっても生きる目的を見失わず、利己と利他にバランスを取り戻すためには、唯物論からの脱却が必要不可欠であるということだ。


唯物論:宇宙の諸現象の本質は主体を離れた客観的な物質であって、人間の精神も物質としての頭脳の機能の一つに過ぎないという説。
狭義ではマルクス主義を指す。 三省堂 新明解国語辞典



No10<現代教育に思うこと>

現在、社会には、専門意識と一般的認識との間に、埋めがたい隔たりが生じているように思われる。
それは特定の分野に限ったことではない。
例えば政治であったり、医療であったり、教育であったりだ。また、罪と罰の意識も同様。司法と警察の認識も、一般人のそれとは乖離している。専門家としての常識が、一般的な感覚から逸脱してしまっているのだ。
その原因は、個々の業界が本質的に抱える諸問題と無関係ではあるまい。

専門家は、自身を一般人とは異なる立場でものを考えようとする。専門家としてのスタンスに固執するあまり、こうしたギャップを生じるのではあるまいか。
専門家は、専門家としての集団で一つのエゴを形成する。そこでは自然と当該集団の利益を優先する思考が常識と化す。一般人の利益と対立しても、個々の集団の利益が優先するという弊害が生じるのだ。
だが、そうして乖離した価値観による弊害は、いつしかその集団の存続すら危うくすることだろう。所詮、エゴはより大きなエゴによって打ち倒される運命にあるからだ。
あらゆる分野において、この一般人の常識が、徐々に専門意識を追い詰め始めている。

教育の現場において、この専門意識が一般的感覚と遊離しはじめたのがいつなのか、正確にはわからない。
察するに、ゆとり教育が声高に叫ばれるようになってのことだろうか。しかし、それ以前から、その種はあったような気がする。
現在、公立の小学校では、絶対評価と称して学業成績に順位がつけられないそうだ。それだけならまだしも、運動会ではあらゆる競争が否定され、リレーにおいてはわざと、勝っている集団にハンデが与えられるのだそうだ。
いわんや、各クラス対抗の選抜リレーなど、もってのほかのようで、純粋な競争がお目見えしなくなって久しいのだそうだ。

こうした学校教育のあり方には激しく疑問を感じずにはいられない。
現代社会は資本主義社会であり、それを存続させている基本原理は競争原理に他ならない。
これを否定する教育を行うことは、資本主義体制そのものを危うくさせる行為なのではないだろうか。
才能のある子供が混乱するだけだと思われる。

もともと、学業で花形になれずとも、運動で花形になれる子供がいてこそ個性の尊重が育まれるのではないだろうか。そして逆もまた然り。今の教育のありようは、こうした個性の尊重とは正反対だ。没個性崇拝そのものであり、子供達を無気力にさせてしまっている。

一方で、こうした学校教育に危機感を抱く親達は、より塾に偏重した教育を行うので、子供達は余暇時間を奪われ、ゆとりとは程遠い過酷な生活を強いられることになる。
塾に行かない子供は余暇を持て余し、教育現場では塾に行く子供との間に生じた格差ゆえ、やる気を無くし、大人たちが余暇時間を建設的な方向に導かねば、「小人閑居して不善を成す」の言葉通り、非行に走ることになろう。
そして、こうした一般人の危惧は、現実のものとなっている。

子供達は徐々に思考を奪われ、自信を無くし、一つのことに専念できる子供が少なくなってきている。虚無的で衝動的で無機質だ。快楽指向であり、極めて刹那的でもある。それだけではない。傷つくことに不慣れな故、傷つくまいとして何かにのめり込むこともなくなっている。

全てではないにせよ、こうした傾向を助長しているのは、今日の競争否定を煽動している学校教育と無関係ではあるまい。
確かに、それ以前のモーレツ主義も沢山のおちこぼれを生み出していたのかも知れない。
しかし、かつては、そのおちこぼれといわれた集団から、社会をリードできる指導者が数多く生まれたものだった。
現在、企業家や政治家として成功を修めておられる方々に、少年期、おちこぼれのレッテルを貼られていた方は少なくないことだろう。

もともと、戦後教育は一部の支配者に隷属できる有能な下僕を大量生産するために費やされてきた感があり、こうしたリーダーとしての資質は排除される傾向にあったといえよう。
それでも、過去の教育に残っていた個性の尊重が、そうした方々を指導者へと導いたといえなくはないだろうか。
現代の没個性礼賛の教育では、いったんおちこぼれたら負け組で、再起不能を印象付けてしまうものなのではなかろうか。

教育のあるべき姿は、個性を発揮できる機会を奪うことではなく、そうした機会をできるだけ沢山提供して、多様な個性を温かく見守ってやることなのではないだろうか。
競争の場で、挫折や敗北を経験することも、人生には必要なはずだ。それなくして他者への尊敬心が育まれることもあるまい。
学校で教えるべきは、競争を否定することではない。どんな競争にも守らねばならないルールがあるということだ。
節度と抑制を失えば、楽しいはずの競技がそうでなくなるということ。
競争そのものを否定しようとする現代教育の発想は、偽善的であるばかりか、幼稚の極みだといえよう。

No.9<全肯定と全否定>

我々は、何事によらず、特定の人物や事物に傾倒しがちだ。のめりこむ度合いが深くなればなるほど愛着も深まる。しかし、この思いは、容易に執着へと姿を変え、エゴとなる。
こうした全肯定の先にあるもの。対象の粗が全く見えてこなくなる状態こそが、盲信であろう。そして、それは狂信へと導かれるはずだ。
有害な新興宗教の多くは、こうした原理を巧みに用いて折伏している。

他方、自分や、自分の愛する対象に対して、少しでも否定的であるものには、ついついそれを全否定してしまいたくなるものだ。
ここに罠がある。例えば掲示板で、管理者が意見を削除する行為は、相手に対する全否定であろう。荒らし行為に対する制裁としてなら、それも止むを得まい。しかし、実際には、そういうケースばかりでもなさそうだ。

私は、教師の運営する掲示板で、この「管理」を経験させていただいた。「熱く語ろう教育」などとのたまった掲示板であったため、愚見を惜しみなく語ろうとしたのだ。
結果、あえなく削除の憂き目にあうこととなった。
諸般の事情があろうことは想像に難くない。けれども、こういう教育者の姿勢にはすこぶる疑問を感じる。

相手の主張を吟味することなく全否定に走る姿は、教育者としてあるまじきことだ。今日、世界に巣くう諸問題は、相手のイデオロギーを容認できない狭量さが招いた災厄なのではあるまいか。
やはり、これも現代教育が抱えた病的体質の表れなのだろうか。
猛省を促したいところだ。

No.8<神とは>

神の捉え方について、私自身は哲学にも宗教にも浅学で、難しいことは解らない。
けれども、神という存在を何かや誰かの思想に限定しようとすることそのものに無理があろう。言葉には限界があり、それは表現の限界をも表しているからだ。

神とは、本来、語り、説明する対象ではなく、個々の存在が、味わうものなのではなかろうか。それは人生と同じく、果実のようなもので、我々の舌が肥えていればいるほど、果てしなく広がりと多様性を持ち得るのだと私は思う。
既存概念におけるあらゆる神がそうであるともいえるし、人によっては、これらのいずれでもないといえよう。

結局、人の意識は、どれほど偉大な神をその内面に描き得るのかということでその価値を決定するのではなかろうか。
私の文章では、哲学や宗教に関する深い知識がなくとも、広く受け入れやすい考え方としての神でよかろう。
即ち、創造主や造物主、あるいは良心という考え方だ。
宇宙や生命の進化には、明らかな志向性があり、この潮流をもたらした根源的存在を仮想しているのが私の立場だ。
ただ、私はそれが自分とは別個に存在するという感覚ではなく、我々自身に内在していることをあらためて主張しようと試みたまでのことである。

No.7<神性の顕現>

生命の本質であるエゴ。それを従える神性は、人以外の生き物にも認め得るものなのだろうか。
エゴそのものは、動物にもあると思われる。そこに人と違いはなかろう。ただ、それをエゴとして認識する能力は、動物にはあるまい。もっとも、人間であってもその認識を欠いた輩は大勢いることだろう。
エゴを統御する精神の自己表現は、動物においても行われている。自然界では、人間社会を超えた調和を実現させている種族は、決して珍しい存在ではない。
また、個々の生命に関していえば、生きるための摂食行為において端的に現れているのではなかろうか。

つまり、自己の生存をかけた摂食行為それ自体はエゴに由来するが、度が過ぎれば、結局餌そのものを失って自滅する。即ち、動物といえども、必然的かつ、本能的に、節度を学ばねばならない。
彼らは、最もプリミティブな領域で、神性を自己実現しているのだと私は解釈している。
実際、肉食動物が慢性的に抱える飢餓状態は相当なものだ。彼らは、生きるための最小限度しか、生き物を殺めないことを習慣にするよう余儀なくされている。草食動物にしても同じことであろう。

彼らにみる神性の自己表現は、エゴの統御などといった生易しいものではあるまい。まさに生きるか死ぬかの戦いなのだ。文字通り、命がけの自己表現だ。あらゆる生命が、苦行、修行の途上にあるといえるのではなかろうか。